最近VRについて考えることが多い。
ゲームは全くしないのでゲームという視点では見ていない。
ゲームをしないわたしが日常生活でVRと称したものを見る場合、自分をアニメキャラのアバターとして設定し、他の登場人物も自分のアバターを設定していることが多く、この時点で苦手意識がマックスになり、それ以上の興味を持てないというのがこれまでだった。
しかし、ふと思ったことがある。
アバターの設定はともかく、VRでは自分は当事者なのだが映像的には自分を客観視することになるのかなと。
そこでTwitterを検索すると、おもしろいことを指摘してる方がいた。
鏡も動画も客観視する材料として適当とは言えない。
— yurui (@yuko1s) 2021年8月10日
VRは自分を他人として眺めることができる。自分の姿のみならず動作、声、考え方までAIに学習させたなら自分と対話することも可能。自分の仕草や話し方を見直すきっかけにもなる。
それに#XR創作大賞
できそうでできないのが自分を客観視すること。
またまたふと思いだしたことが、車の運転を録画して後で見ると、赤信号ギリギリで走り抜けたと思っていたシーンのほとんどが言い訳できないくらいの信号無視だった、という事実。
映像として客観視しなければ全く気付かないことだった。
それ以降、信号の変わり目では後続車にクラクション鳴らされるかなと思いながらも早めに止まるようにしている。
これ以降注意しながらの映像も後から確認すると、止まるのが早すぎるかなと思っていたシーンの多くは、余裕を持ってというよりもギリギリで止まっているという印象だった。
感覚と実際の間にはズレがあることをハッキリ自覚できた出来事だった。
これは客観視できたから気付いたことであり、客観視できなければ気付かなかったことであり、現実社会では気付いた時にはもう取り返しがつかないということがあり得るのだ。
自分自身が当事者として参加してる場で、リアルタイムで自分を他人として客観視できるという体験はおそらくVRじゃないとできないのかもしれない。
ただ、現在のVRの技術レベルでのリアリティや没入感はどうなのだろうかと考えると、まだまだだろう。
Facebookがメタバースに注力するということはこの辺が劇的に改善するのかもしれない。
最新テクノロジーの進歩を実感できるのは、少し前のテクノロジーに接した時だ。
新しいものや優れたものにはすぐ慣れるので、そのことを日常ではありがたいと感じないし、大した進歩ではないとすら感じている。
しかし、古いものに接した時にその差に気付くのだ。
カメラの高性能化で映像の鮮明さは劇的に上がったので、最近の映画やドラマを見慣れた後に、昔のものを見ると映像が不鮮明で寝ぼけたように感じることもある。
このような変化だけではなく、Goproのようなアクションカメラの登場で、自分が当事者になったかのような臨場感の共有が可能になっている。
またドローンの登場と実用性の高まりで、空撮におけるヘリコプターの需要を奪っただけでなく、さまざまな高度や角度からの鳥の目や虫の目的な視点まで手に入れることができている。
そして、VRによって自分自身の客観視が可能になりつつあるとすれば、新しい扉が開いてもおかしくないはずだ。
思えば、テクノロジーの進歩は趣味嗜好への深まりを促進し、表現行為を通じて自意識を拡大させ続けてきた。
これは、客観の麻痺を促進したともいえるはず。
行き過ぎた何かに自然とブレーキが掛かるような、それでいて確実な進歩を実感できる可能性をもしVRが秘めてるとするならば、期待するのはアリだろう。
ゲームに留めるのはもったいない。