『なるほど!』
『そういうシナリオを展開するのか!』
という話が出ていた。
ビル・ゲイツは、オミクロン株の流行が収束した国では、新型コロナウイルスの感染者数が激減するはずだと述べた。
— Forbes JAPAN (@forbesjapan) 2022年1月12日
→「コロナはインフルエンザと同等になる」、ビル・ゲイツが予測https://t.co/Kqb7lobK52
『オミクロン株の流行が収束した国では、新型コロナウイルスの感染者数が激減するはず』、と言い切る背景には自信と確信が感じられる。
決して希望や願望を語っているようには感じられない。
だとすれば、コロナはやっぱり人為的に仕掛けられたと思われてもしょうがないように感じられる。
わたしの疑心暗鬼を誘ったのは次の記述。
オミクロン株よりも感染力の高い変異株が出現する可能性について、ゲイツは「ない」と述べたが、その根拠については触れなかった。
実際のコロナがどうなるかは『乞うご期待』というところだろうが、わたしがおもしろいと感じたのは、ゲイツの発言のコロナやオミクロン株の部分を幽霊やお化けや呪いや祟りと置き換えても意味が通じるなと感じたことだ。
昭和の子供にとって、幽霊やお化けはもっと怖い存在だったし、実際に存在していてもおかしくないと思っていた。
そして、幽霊やお化けには呪いや祟りがセットで付きものだった。
これらは、ただ単に怖いものというよりも、してはいけないこと、しなければいけないこと、という道徳やしきたりの実践を促す教訓として語り継がれていたように感じる。
学問や科学の発達で、それらの中の根拠に乏しいものは廃れていった。
その結果、人間は不安や恐怖を感じる場合にもなんとなくではなく、根拠や理由を求めるようになった。
そして、不安や恐怖を漠然としたものではなく、具体的なものとして表現することにつながった。
そう言えばと、さらに結びついたのが中世ヨーロッパに端を発する魔女狩り。
理由は諸説あるが、動機としては宗教指導者にとって不都合な人物を魔女と位置づけ排除しようとすることだったように捉えている。
制限下での外出やマスク非着用やその他、コロナ禍には魔女扱いされる行動はいくつもあった。
魔女を国家や政治が狩るのか、それとも大衆に狩らせるのか、そういう違いも世界に目を向けると感じられた。
魔女を探すことは、個人を特定すること。
感染者が見つかれば、どこで感染したかと場所とその濃厚接触者を追いかける、まるで魔女の輪を広げるみたいだ。
魔女探しが始まると、何をしたかよりも誰なのかが重要になる。
『罪を憎んで人を憎まず』、という考え方の反対には圧倒的にメジャーな『人を憎んで罪を憎まず』という法治国家流の考え方があるということに気付く。
さて、ビル・ゲイツが言うようにコロナはオミクロン株を最後に終息するとしても、目に見えない幽霊やお化けを怖がる気持ちや魔女狩りをしたくなる気持ちや魔女扱いされることを恐れる気持ちまで消えてしまうわけではない。
コロナが収まったら収まったでまた新しい世の中の流れが出来上がり、そこでは新しい幽霊やお化けや魔女が出現してくるはず。