論点がずれてる話に夢中になることが多い。
むしろ、ずれた方が本筋であるかのように。
写真が好きだという人の半分は写真の話よりもカメラの話に夢中になり、写真を語ってるつもりでカメラを語り出す。
運転が好きだという人の多くが、ドライブについて語らず、クルマやバイクの性能やエンジンや装備品についてよく語ることとも共通してる。
受験勉強でも勉強方を語ってるつもりで、参考書や塾や予備校や模試や偏差値についてのうんちくを語りたがる。
どんな仕事がしたいか、何をやりたいかがテーマであっても、気がつくと給料や待遇の話が主要なテーマになる。
先日、東大前で受験生を刺した犯人の高校生が通っていた高校の校長が謝罪と称して、『コロナ禍で生徒間に分断が生じていた』と語っていて、悪意から出た発言でないことは百も承知の上で、聞いた人や読んだ人の多くが『それってなんか違うな』と感じたことだろう。
熱く語ってる最中に『あれ、なんか俺(聞かれたことやその場のテーマと)違うこと語ってるかも』と感じたことがある。
しかし、同じことは繰り返し起きてるように感じる。
自分だけでなく世間にも広く多く。
まじめに真剣な顔をしていても、事態が切迫してるとしても、人間同士のコミュニケーションの本質は、きっと井戸端会議なのだ。
津波警報を出すに当たって、津波の定義に合致しないという理由で、発生する高波をなんと呼んだら良いのかで慌てふためく気象庁の一方で、神奈川県民は頻発するエリアメールにウンザリしていたという話を聞くと、命を守る行動をと呼びかける現場でも実際に起きるのは井戸端会議なのだなと感じたこの土日だった。
そこに集うメンバーで行動しなければいけないならば、井戸端会議の向かう方向性に逆らったらうまく行かないはず。
こうして人生は思ってもいなかった方向へどんどん進んで行くのだ。