昨今の統一教会と自民党の関係を見てると、お互いがお互いの代理店の役割を果たしているように感じられる。
統一教会は信者を集めたい、と言うよりも本当に集めたいのは献金。
一方自民党は、選挙で票を集めたい。
その利害が一致したからこそ相互代理店が成立したのだろう。
揶揄したいのではなく、世の中ってそんなもんだよなと言う理屈は知っておいた方が良さそうと言う意味。
さまざまな職種に代理店は存在するが、そもそも代理店とは?、と考えたければその反対語に目を向けると分かりやすい。
代理店の反対語は直販。
念のために補足すると、日本で代理店というと広告代理店をイメージする人も多いだろうが、それを含めてあらゆる分野に存在する代理店であり代理業を取り上げている。
モノであろうとサービスであろうと、メーカーや輸入元が自社で販売の全てを担えれば利益率だって最も高くなる。
それなのになぜ代理店という制度を取るかというと、自社だけでは必要な販売量をこなせないからだ。
虚業を除いた実業では、売上や利益はエンドユーザーから上がる。
BtoBビジネスではその実感は薄いかもしれないが。
当然ながらすぐに湧く疑問として、自社で処理しきれない販売量を設定した販売計画がなぜ生まれたのかというのがある。
最も大きな理由としては、事業立ち上げ時の資金を銀行融資や投資家から受ける際に見栄えのよい販売計画や事業計画を作るから。
ただし、その計画に対して資金を出す側が事業の成否を担保するために口出しだってしてくるという大人の事情もある。
『お前らだけでその計画は達成できるのか?』
『全部売り切る自信はあるのか?』
『売れ残りなんて許さないよ!』
この疑問に対する答えとして代理店が存在価値を持つのだ。
日本の商社という存在も代理店だ。
代理店という存在に疑問を持つことは昭和から平成初期は全く無かった。
代理店が存在価値を持つということは、人間関係や組織関係が価値を持っていたということでもある。
あの人やあの組織を介さないと知り合うことも結びつくこともなかった、そういう関係性が少なくなかったから成り立つとともに、だからこそ人脈なることばが妙な説得力を持つようになったのだ。
しかし、令和になった今、統一教会との代理店関係がバレて慌てふためく自民党を見てると、代理店という仕組みはもう保(も)たないのではと思えてくる。
相互代理店の一方である統一教会側は、自民党からはもっと甘い汁が吸えると簡単には手放したくなさそうな様子が感じられる。
代理店という仕組みや制度が順調に機能するのはあくまでも本体が順調な場合だけで、本体の屋台骨がぐらついていると代理店は損切りの対象でしかなくなる。
持ちつ持たれつ、おんぶに抱っこ、上手く行ってる時には心地よい手応えが、ただの重荷になるともう保たない。
損切りの嵐はもうすでに吹き荒れているのか、それともこれから吹き荒れるのか?