この数日で、三遊亭円楽さんとアントニオ猪木さんと有名人の訃報が相次いだ。
お二人の在りし日のわたしの脳内のイメージは当然ながら元気な時のものばかりだ。
そしてその在りし日のイメージは、今にして思うとかなり前のものなので、あんなに元気な方でも死は訪れるんだなという感慨があった。
お二人ともテレビへの露出が多い方だったので、アーカイブ映像が多数流れてもいた。
そんな中に、闘病中の最近の映像も含まれていた。
その姿は元気とは程遠いものだった。
自分が撮影されてることは意識してるので、ありのままを見せるつもりでも気丈に振る舞おうとしてたはず。
しかし、見る者に『元気が失われるとはこういうことなんだな』と思わせる姿だった。
いや、姿というよりも、最も思ったのは、『元気(の無さ)を象徴するのは声だな』ということだった。
つまり、元気が失われてることは声に表れ、その度合いを声が象徴していた。
少しばかり、声が出るメカニズムを調べてみると、ポイントは大きく二つだと再認識できた。
一つは肺の動き。
肺は単独では動かないので、肋骨の周囲の筋肉を動かしてと横隔膜を動かして、この二つの合わせ技で肺は膨らんだり萎んだりを繰り返しているが、声出しに関係するのは肺に吸い込まれた空気を外に吐き出す時。
吐き出す空気と吸い込む空気は成分は違っても基本同量だろう。
もう一つは咽頭の筋力。
あまり意識しないが、声を支えているのはさまざまな筋力だと分かるので筋トレが有効なはずだが、一般的にイメージするジムでするような筋トレではなさそうに感じられる。
声を出したり歌ったりも大事だし、バカにできないのが深呼吸、そして日常的にどのような姿勢を保っているか、そういうことの積み重ねで大きな差が付いている可能性が大きいのだ。
病気やケガで長期の入院をした人は声が出にくくなるし、声質も少し変わったりすることが多い、退院後に日常生活に復帰すると多くの場合すぐに回復するが、ここにリハビリの不調や加齢が加わったりして、日常生活への復帰がスムーズじゃないと、声が出にくい状態が標準になってしまう可能性が高くなる。
日常生活の目安は、ごく普通の家事くらいの運動量やストレスにならない程度のウオーキングをこなせるくらいで十分だが、大事なことは継続だ。
ウオーキングレベルの運動を継続できるだけでなく、そのことを楽しめるかそうでないかでも大きな差がついてるように感じられる。
コロナ禍を経験したことで、声をしっかり出すことに抵抗を感じる人が増えたかもしれないが、声を蔑ろにしてるとしっぺ返しは大きいと知っておいた方が良さそうだ。
猪木さんの合言葉だった、
『1、2、3、ダー』
『元気ですかー』
『元気があればなんでもできる』
これらの言葉は、声が元気だからこそのものだったのだ。