批判したり、問題点を指摘することは誰にだってできる。
おそらく原点には嫌いや不快があるはず。
その嫌いや不快をオブラートに包んで中立を装いながら展開するのが批判や問題点の指摘の王道だ。
昨日甲子園で優勝した慶應高校にも批判や問題点の指摘が出ている。
応援団に対してだ。
応援が過剰で熱過ぎてマナー違反だと指摘する声が上がっている。
その結果、仙台育英ナインが過度のプレッシャーに晒されたり、選手間の声掛けのコミュニケーションが応援の声にかき消されてできなくなり、仙台育英に不利に作用したという批判につながっていた。
しかし、逆に考えると、慶應高校の勝利を良しとできない人のツッコミが応援団しかなかったということでもある。
慶應高校ナインのプレーにも仙台育英ナインのプレーにも、プレーそのものには批判や不快など無かったのだ。
以下は野球からは離れる。
批判や問題点の指摘というのは、改善やソリューションの提示とセットで初めて本来の役目を果たす。
改善やソリューションの提示がない批判や問題点の指摘というのは、不満を吐き出してるだけの排泄行為に過ぎない。
つまり不満が不満だけに留まってるような場合は、すべてほったらかしにしてると排泄しっぱなしのゴミ問題と同じになる。
今日書いてることは自分自身に向けてでもある。
解決に向けての意見や提案が伴わない批判や問題点の指摘はカッコ悪い。
こんな世の中だから、誰でも吐き出したい毒を持っていて当然だが、その毒を中和できる方策を自分自身が持ち合わせないならば毒は吐き出してはいけない。
持ち合わせてれば毒は弱毒化する。
余計なストレスを抱えることになりそうだが、実際にはただ毒を吐き出すだけでは多分倍返しに遭う。
倍返しを受けると再起不能なほどの自己嫌悪につながることもあり得る。
自分の毒に自分がやられるのだ。
冷静になって振り返るとカッコ悪かったと思うことはしてはいけない。