昭和の頃には、デビューしたばかりの女性アイドルのことを「隣のお姉さんのような」と表現してるのをよく聞いた。
アイドルとして人気が出たり、親近感を感じてもらうためには、自分とかけ離れた遠い存在に感じさせるよりも、身近な存在に感じてもらう方が大切になったからだろう。
売り込む芸能界の側の戦略でありプロモーションであり、タレント発掘が公開や公募の形で行われていた場合、エントリーする人をまず増やす必要があったからだろう。
当時は全く分からなかったが、今なら分かるような気がする。
そして、「隣のお姉さんのような」と人気になったアイドルを見て多くの人が、「隣にはあんな子はいない」と反応していた。
当たり前ではあるが、抜きん出た何かを持っているからデビューできていて、その流れは今でも同じだろうが、時代と共に少しずつ変化し、気が付いたらとても大きな変化を起こしていたのが「抜きん出た何か」の中身や評価基準だ。
芸能界に限らず政治やビジネスの世界でも2世3世でなければ社会の上層部には引っ張り上げてもらえない風潮が強くなったように感じる。
これを世襲と呼んでしまうと、それはそれで違うような気もするが「抜きん出た何か」に出自が関係してるのは残酷な現実だ。
なぜなら、それなりの人の2世3世であっても安定して上層部に留まれるわけではないからだ。
しかし、2世3世の方がチャンスが多いのは確実だ。
出自と似たような役目を果たすものには、肩書きや実績もある。
さらに言うと、実績や肩書きにはフェイクも通用する。
仮にフェイクがバレて世間から叩かれても、それを補って余りある知名度が獲得でき、その知名度が「抜きん出た何か」の役を果たす。
最初のスタートの段階で、下駄を履かせてもらうような何かは現代では有効なのだ。
と言うよりも、差別化できるものがその程度の違いでしかなくなっているのだ。
ただ、そんな流れもここに来てフェードアウトしてるようにも感じる。
Twitterを始めとするSNSの様子を見てると、世間がそっぽを剥き出してるようにも感じるが、単なるアルゴリズムの試行錯誤に過ぎないかもしれないが。
いずれにしても、人々は「抜きん出た何か」を求めて一喜一憂を繰り返しているのだ。
であるならば、「抜きん出た何か」の中身や評価基準の変化には敏感になった方が良い。
ヒントになるのは、アイドルが隣のお姉さんと言われたようなことかもしれない。