昭和の頃に何の疑問も持たずに思っていたことがある。
力仕事は男性がやること、家事は女性がやること。
男性は機械(いじり)が得意だが、女性は苦手。
今にして思うと、男性と女性を必要以上に分類していたのだと分かるし、現代ではそれは差別だとすら言われる。
そのことで男性が受け持つジャンルと女性が受け持つジャンルと分類化されていた。
原点であり究極の違いは、子供を産めるのは女性だけということに由来してるのかもしれないが。
しかし、良くも悪くもそういう分類分けは至る所にあったし、今もある。
分類されることに馴染んでしまうと自然に受け入れることには、理系と文系というジャンル分けもある。
この理系文系も、昭和だと男性は理系で女性は文系と決めつけることが多かった。
こんな書き出しで始めたのは、ニュースサイトでされてるジャンル分けを見ていて思ったから。
アンケート等では、興味あるジャンルという項目は定番で、好きな音楽のジャンルや好きなコンテンツのジャンルやドラマのジャンルなどと選択肢を設けて問うことは日常に馴染んでいる。
時代が進むほどに分類の細分化も進んでるように感じる。
好きなジャンル、得意なジャンルを意識することは、嫌いなジャンルや苦手なジャンルを意識することであり、嫌いや苦手に分類したジャンルに対しては無視無関心になりがちだ。
仕事でも業種や業界を分類し、それぞれの企業では営業、総務、経理などと分類し型にはめるとそればかりになりがち。
仕事面では他にはゼネラリストかスペシャリストかという分類もある。
その結果言われるのが、
会社や業界の常識は世間の非常識
だ。
悪意を持たずに馴染んだジャンル分けという分類は、色メガネという壁を他人だけでなく自分自身にも作ってしまう。
現代の病気は、症状に名前を付けることで顕在化するものが多い、そして病気として認知されると次から次に症状を訴える人が現れる、まるでジャンル分けと同じ現象に感じられる。
このように考えると、タグをつけて発信される情報やブログのタイトルですらジャンル分けに染まりきっている事が見えてくる。
検索という行為が一般的になると、ワード単位でジャンルが形成されるとすら言えそうだ。
SEOなんていうのもこのジャンル分けの一種だ。
そういえばこんなジャンルも最近は幅を利かせている。
経営者目線。
すべてを儲けや利益や効率で評価することだ。
全ての社員が経営者者目線を持って働くべき、などという標語すらある。
理屈の上では間違ってなさそうなのが最も怖い。
トレードオフの関係にあるものが切り捨てられるからだ。
トレードオフされるものが何なのかは人によって感じ方が違うだろうが、多くは幸せや喜びと無関係ではない。
何かを選ぶことは、別の何かを選ばなかったということでもある。
ジャンルがどんどん増えているということは、選択肢が多いということでもあるが、そのほとんどは選ばないジャンルでもあるのだ。
ジャンルは選ぶだけの存在だろうか?
もしかしたら、ジャンルの側でも人を選んでいるかもしれない。
今生きてる日本人の多くは、日本をジャンル分けすると先進国だと無条件に思ってしまうだろうが、実は発展途上国だったと思い知らされることも少なくないという事が増えているのは何とも皮肉だ。