『中身で勝負』、そう思う人ほど中身が乏しいというのは悲しい現実。
『乏しい』と言うよりも『伝わらない』の方が相応しいかも。
どちらにしても中身が無いという扱いになる。
おもしろいかおもしろくないかを、じっくり時間を掛けて判断することが減っているのは情報過多の必然だ。
じっくりが意味する時間の長さは今や数分ですらなく数秒なのだ。
振り返るとお笑い番組を見なくなった、私のことだ。
自分が歳を取ったせいだと思っていたが、そもそもおもしろくないからだ。
おもしろくないと気付くのはネタを見てというよりも、漫才師がステージに登場する姿や顔や表情を見て、せいぜい第一声までで判断している。
どう考えてもネタの中身で判断してはいないので、この分野に興味を失ったのだなと思い込んでいた。
同じことはドラマにも当てはまる。
小賢しい知識ばかりが増えてるせいか、おもしろくない理由を脚本やキャスティングや演出で語ろうとするが、もっとシンプルに見た瞬間に期待値が自分に許容できる最低水準を下回るからだ。
この判断が正しいとは限らないことはなんとなく意識できてるが、おもしろくないという烙印を押したらよほどのドンデン返しがないと覆ることはない。
それにしても不思議なのは、このような自覚があっても許容範囲は増えず、ダメという判断は一瞬で下してしまうことだ。
上手なプレゼンを指南する話でもキーワードには3分とか3秒が多いのは、中身で勝負する前に勝負は付いていることを示している。
自分が演者の側だったらなんと理不尽なと思うようなことを、逆の立場では平気でやっている。
それが現代の現実なのだ。
私がブログを始めたのは2016年。
その頃は最低でも1500文字は書けというのが定説で、長ければ長いほど良いとすら言われていたと記憶する。
このような意識が頭の片隅にでも定着してると、きっと文字数を増やすために無意識のうちに贅肉のような表現で武装するようになる。
その結果自分が時代遅れな存在になっていても、自分のせいだとは気付きにくい。
中身で勝負、と思ってる人ほど勘違いしてるのは、すべてが中身だということ。
つまり、最初の最初が肝心になる。
最初に結論をというアドバイスも多いが、それは一つのパターンに過ぎないだろう。
結論から始まる場合、後には納得があるかどうかだけで、それだと感動はほぼない。
最初があるから興味を持ち、その後につながる。
その後も大事なのだが、最初で躓くとその後はゼロだというのはついつい忘れがちな怖い現実なのだ。
最初で躓いたばっかりに世に埋もれた名作は多数あるのだ。
と、今更ながら思っている。