違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

見えないはずのものが見える

病気は病名が与えられて初めて症状が共通のものだと認知される。

 

適切な病名が与えられない症状に苦しむ人は、病気自体の苦しみのほかに、自分のことを世間が理解してくれないという不快感や苦しみをプラスで感じるかもしれない。

 

 

そんなことを思ったのは季語について考えていて。

 

季節を表すのが季語だと単純に捉えると、暦の仕組みや気候や生態系が昔と変化した現代では、なんか合わないなというツッコミを受けることもあるだろう。

 

しかし季語を、人間が実際に感じるものとして位置付け、季節や時期はおまけみたいなものと考えると、今も昔も関係なくなる。

 

季語が無ければ、長い文章で野暮な説明を必要とするところが、一言で表現できるのだ。

 

自然の美しい景色や風流を表す言葉に花鳥風月がある。

 

花鳥風月ということばだけを最初に知った人は、花や鳥や風や月が特別な存在なのかなと不思議に感じるだろう。

 

花鳥風月は美しいと感じる自然の総称みたいなものだが、人間が意味や価値を感じたくなる自然は結局のところ花や鳥や風や月に還元されるのだろう。

 

それが証拠に、一人1台どころか複数台所有にカメラが普及し映えを意識した人の多くが結局撮っている物の多くは花鳥風月的なものばかりだ。

 

花鳥風月もまた季語的な存在なのだ。

 

 

名前や意味を与えられたことばには魂が宿り、もうそのことばが無かった時や、そのことばを知らなかった時には戻れなくなる。

 

これは単純に記憶されたというようなものではなく、DNAとシンクロするような、もっと深いところで結びつくからだ。

 

見えないはずのものが見える、聞こえないはずのものが聞こえる、確かにそういうことはあるのだ。