違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

信用する後悔、信用しない後悔

タイタニック見学の潜水艇タイタンの圧壊と搭乗者全員の死亡が確定した。

 

しかも、行方不明になった瞬間に圧壊とそれに伴う爆発が起きていたのだ。

 

 

 

 

 

日本人だったら、知床の観光船の沈没事故に接した時と思いがだぶるかもしれない。

 

知床の事故では犠牲になった観光客は、船や運行会社の杜撰さを知ることは不可能だったが、同じく犠牲になった乗務員は知っていた。

 

乗務員も杜撰であることは理解していたが、沈没するようなことはないと、そこは信用してたのだ、そうでなければ乗るわけないから。

 

 

翻ってタイタンの場合、犠牲になった乗客は冒険に関しての素人ではなさそうで、杜撰さは十分承知した上で過去の成功の実績を信用したのだろうし、現在タイタニックに近寄るためににはタイタンに乗るしか選択肢もなかったことも大きいはず。

 

過去の実績を信用していたのは、運行会社のCEOが操縦士として乗っていたことからもそれは分かる。

 

 

 

 

 

 

『信用とは何か?』と問われたら、誰でも結構語れるかもしれない。

 

それはおそらく『こんな奴は信用できない』という事例の一つや二つを体験として持っているからだ。

 

 

社会に出る前の時期の信用とは多くの場合で約束を守ることを示す。

 

言ったことを守る、言ったことは実行する、待ち合わせの時間を守るなどで、中にはテストの点数や合格を約束してそれが果たせずに信用を失うという場合もあるだろう。

 

そして『必ず返すからお金貸して』と借りて、そのお金を返さないという事例も少なからず起きるものだ。

 

 

約束を守ったり、借りた金を返すことを、信用だとはあまり感じないが、約束を守らなかったり、借りた金を返さないことは、信用を裏切る行為だと誰もが思う。

 

 

つまり、子供の頃から信用とは、反面教師の存在があって自覚することが多い。

 

 

大人になり社会に出ると、信用とは限りなくお金に関連したものに収束する。

 

約束したお金をきちんと定められた期間内に払うかということと同じになる。

 

 

お金と信用を天秤にかけることはありふれた日常の光景だが、さすがに命と信用を天秤にかけることはカタギの世界ではない。

 

 

今回のタイタンの乗船にあたっては死亡しても異議を唱えない旨に同意してもいたらしい。

 

手術の経験者だと文言上似たものに同意した経験のある人は多いだろう。

 

私も一度心臓周りの血管のカテーテル検査を受けた事があるが、その際の説明で1000件に1件大出血が起こり、そうなると死亡する事があるということで同意書にサインした事があるが、サインできたのは説明を受けた翌日になってからだった。

 

 

万全の体制が組まれてることに対して疑問を持つことは一切無くても、死がグッと身近に感じられて、サインする後悔とサインしない後悔を天秤にかけたのだ。

 

 

 

犠牲になった方々は、どんなつもりでサインしたのだろうか?

 

 

わたしとは決断のレベルがまるで違うようにも感じるし、同じレベルだったからサインできたのかもとも感じてる。