デジタルの時代になるとデバイスの使いこなしにインターフェイスが大きく関係するようになった。
インターフェイスとは異なるものを接続することで、デジタルデバイスの場合は端子や端子の形状を意味する。
端子には共通性が求められるので共通の規格が設けられる。
インターフェイスは日進月歩なスペックの向上に対応する必要があるのでリニューアルは必然だが、その際に形状まで変化すると以前のものは使えなくなるという不都合が生じる。
最近ではインターフェイスは無線化され端子を介さない場合も増えている。
データはあっても、インターフェイスが一致しないとアクセスできないので、そのデータや情報は無いのと同じになる。
これはデジタルデバイスとデジタルデータのコミュニケーションの話だが、同じことが人間同士のコミュニケーションにも起きているかもしれない。
スマホやPCのアプリがインターフェイスとして機能しているとしたら各種のSNSがそれに当たるのかもしれない。
使ってるSNSが違ったり、そもそもSNSを使ってなければ、どんなにバズってる情報でも知ることは無いかもしれない。
インターフェイスの意味や役割は、接続することでありアクセスするためで、その場合の主役はデータだったが、SNSはデータを含めてコミュニケーションとしての役割を担うようになったが、そのデータやコミュニケーションは野放しに近い。
野放しの悪意や捏造されたデータを見抜くためにはリテラシーが必要とされる。
デジタル時代に人の感情を刺激するのはインターフェイスを介したデータやコミュニケーション。
今年になって一気に広まったChatGPTも、AIがコミュニケーションのインターフェイスとして機能し始めた最初と捉えられるかもしれない。
画期的であり最大の特徴は、まだ間違うことはあっても、一定のリテラシーを備えるようになったことだ。
ChatGPTがやってるのは高度で高速なネット検索という意味では、向き合ってるデータは人間が検索して得る情報と理屈上は大差ないはずだが、受ける印象は人間の相棒に通じるものが感じられるレベルになっている。
インターフェイス化してるのは人間同士のコミュニケーションだけでなく、人間関係自体がインターフェイス化してるかもしれない。
現場(入り口)で動くのは派遣やバイト(闇バイトを含め)だが、その労力は搾取されるだけというのも当てはまりそう。
そのくせ事あるごとに人手不足を嘆く姿は、インターフェイスの形状が変化した途端に持ってたものはまったく役に立たなくなることに似ていて、いないと困る、無いと困るからといって大事にするわけではない。
自然現象ですらインターフェイス化を感じることがある。
昨日から北部九州の大雨で被害が出ているが、これは線状降水帯がインターフェイスとなって起きたものだ。
その関係性がどんなものであろうと、関係の入り口や始まりに特徴的なインターフェイスの存在が感じられる場合は、良いことも悪いこともそこから始まる。
ただ良いことの場合は、意外と情報が少ないので気付きにくいが、悪いことに関しては顕著に目立つのだ。
格差が大きくなったのもインターフェイス化のせいのはず。
隠れたインターフェイスに気付くことはリスクヘッジのためには重要だ。