日本でビジネスリュック(バックパック)が浸透した背景には、利便性以上に痴漢冤罪を防ぐためという理由が大きい。
10年くらいの時間を掛けて、ビジネスファッションを損なわないリュックやバックパックが増えたし、カジュアル過ぎてマナーとして相応しくないという考え方も薄らいだ。
また、背中側にバックの膨らみがあることは混み合ってる中では迷惑なので、逆に背負って身体の前にバッグ本体を置くという独自な文化も生み出した。
すべての原点は両手をフリーにするためで、特に満員電車やバスの中で両手で吊り革を持つことで痴漢無罪を主張するためだった。
つまり、男性側の事情が大きい。
そして両手がフリーにできることに加えて左右の肩の荷重が均等になることはやってみるとこの上なく便利だったという一石二鳥でもあった。
若い人だと痴漢冤罪防止という切実な事情をイメージできない人もいるかもしれない、ただ便利だから、合理的だからとしか思ってないかもしれない。
また、自転車で通勤や通学をする人ならば手提げバッグやトートバッグだと不都合なだけと最初から選択肢は一択という人もいるだろう。
もし、痴漢冤罪を恐れるというストーリーをビジネスパーソン(限りなく男性限定だが)が描かなければ、ビジネスリュックがどんなに便利で合理的でも普及浸透しなかっただろう。
人間の行動の背景には、自分が描いたストーリーが隠れている。
今では、満員電車に手提げバッグで乗車する人は、周りの人から『この人痴漢するつもりかも』という目で見られてるかもしれない。
一つのストーリーが市民権を得ると、それに相応しい新しいストーリーも広がり始める。
多様化といえば多様化かもしれないが、あくまでもストーリーが大事なのだ。
ストーリーが成立しなければ価値観として成立することはできない。