世の中、伝わってくる話は右を向いても左を向いても矛盾を感じる話が多い、というよりも矛盾だらけ。
そんな時は、そもそもについて思いが行く。
目指すこと、望むことの反対を行く人が何と多いことか。
好かれたいはずなのに嫌われようとしてるとしか見えない人。
喜ばせたいはずなのに怒らせようとしてるとしか見えない人。
アドバイスしたいはずなのにお説教してるようにしか見えない人。
なぜそんなことが起こるのか?
そもそもピントがズレてるからなのか。
肝心な一言が足りない、あるいは余計な一言のせいなのか。
正解など無い問いに対して無理矢理こじつけた答えを当てはめようとするからなのか、あるいは本当は正解が存在するのにその正解をスルーしたことしか思い浮かばないからなのか。
もしかしたら、自分には当てはまることが当てはまらないからなのか、またはその逆か。
上記は他人とのコミュニケーションのズレだと言えるが、では純粋な自分事に関してはどうだろうか?
他人とのコミュニケーションには難があっても自分事に関して満足が行くなら悪くない。
自分自身とのコミュニケーションはそもそも論の自問自答。
そもそも自分は何が好きなのか?
そもそも自分は何がやりたいのか?
そもそも自分は何様だ?
そもそもについて思いを馳せるとは、いわば原点の再確認だ。
現状を過度に憂えても価値はないが、原点からどこに向かって移動した結果の現状であるのかを知ることには意味があるはず。
暇な時には自分にとってのそもそもを考えることは悪くない、はず。