自分がどんな人かを説明する場合、自分が自己紹介的に説明する内容と、周りにいる他人が説明する内容は、ほぼ一致することはない(はず)。
これは、自己評価的な長所や欠点と、他人が評価する長所や欠点が違うということを意味するし、違うというよりもズレていると表現した方が相応しいかもしれない。
このズレや違いが生まれるのはコミュニケーションの結果だろう。
コミュニケーションとは、結果的に損得や快不快や好き嫌いの発露だ。
自分自身の中にだって複数の自分がいてコミュニケーションを取り合っていることはきっと多くの人が自覚してるだろう。
多重人格の始まりなのかもしれないが、反省する自分と反省しない自分がいたり、自問自答するような際には自分の中にもう一人時には二人の自分が出てきたりする。
そういう場合のほとんどは、不安や心配だからで、楽しい時ではない。
不安や心配の多くは具体と漠然が渾然一体となっている。
つまり、過剰な自意識を持ってもあまり良いことはないのだ。
もし、宇宙人が地球に来て地球人を観察すると、男性の場合、私やあなたと大谷翔平はどこが違うのか分からない程度の違いでしかないはずだ。
女性の場合は例えに誰を出せば良いのかピンと来ないが…、その程度の違いだ。
ここまで展開している屁理屈みたいな話は、意識高い表現をするなら正しい認識とは何かを巡っての話だ。
数学や物理学のような絶対普遍の真理のような正解よりも、揺れ動き常に変動するような正解の方が世の中には、人間社会には多い。
昨日の正解は今日はもう通用しないかもしれないし、今日の正解は明日にはもう正解ではない、そういうことの方がはるかに多いのだ。
以前は楽しくて気持ち良かったことが、今はもう楽しくもないし気持ち良くもない、そういうことは珍しくないし、逆に以前は特に興味も関心も無かったことが今では大好きで楽しいということも少なくない。
それらは成長や成熟や老化と結びつけられやすいが、正解が変化するということの現れの一つだろう。
不安や心配や悩みは、不変で普遍な正解や理想を描いているから生じる。
もし、正解を変化させられると、不安や心配や悩みではなくなると思えば、意識的に正解を変えれば良いのだ。
〇〇すべき、△△あるべき、などと正解を限定することで自縄自縛の負のループに陥ってるということは多いかもしれないし、それこそが積み重ねた人生であり財産だなどと思ってるかもしれないが、宇宙人から見ればイーロン・マスクも社畜も違いは分からないのだ。
不安や心配や悩みなんて所詮その程度なのだ。