漫画家の訃報を巡ってさまざまな論の応酬が交わされている。
ほとんどがどの立場に肩入れするかというポジショントークの中で、『なるほど』と思える話があった。
Twitter上で展開されてる話で、中心に位置するツイートひとつのみ紹介するが前後に多数のツイートが続くので興味ある方は全部に目を通して欲しい。
小説家は、すべての事象、世界を文章だけで表現する能力を培ってきています。映像作家にはそれらを映像と音だけで表現する能力が必要です。言葉だけで構築された最高の作品を、絵と音だけで最高の作品にすることなんて、ほとんどの小説家にはできません。前に書いた河森正治監督のエピソードを→ https://t.co/qSXoKi31pp
— 高千穂遙 (@takachihoharuka) 2024年1月30日
映画やテレビドラマでクレジットに続々と名前が連なるのを見るたびにこんなに大勢が関わっているのかと驚くとともに、それって本当に必要なのかという思いの方が強く、中にはクレジットで名前出してあげる代わりにタダ働きを強いられてる人もいるんだろうなとしか思っていなかった。
そういう要素がないとは思わないが、多数の専門に割り振られた役割分担の上に成立しているという部分が間違いなく存在するのだ。
ただ最大の問題は、その分担の必要性や意義が関わる全員に周知徹底されてかつ理解されているかだ。
分担される役割の中に搾取や各種のハラスメントの臭いが漂うケースなどきっと日常茶飯事なはず。
大地震や大津波その他天災は、誰かが悪くて起きたものではない、地球温暖化に起因していたとしても、それが人間のせいだとしても、特定の誰かのせいにすることなど不可能。
しかし、そんな誰が悪いわけでもなく起きた災害ですら、復旧復興の段階では人災の様相を呈し始める。
上手く行かない現場では特定の個人名が上がるはず。
きっと現場の最前線では多数の分担された役割とその優先順位があるはずだが、使命感や責任感だけではその割り振りは上手にできないのかもしれない。
あまり好きな表現ではないのだが、罪を憎んで人を憎まず、事情が分かれば分かるほどそうとしか思えないこともある。