違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

乗るか乗らないか

ビジネスの基本が完全に変化した。

 

売れるものを売る、売りたいのは売れるものだけになった。

 

元々は、商品やサービスは売るよりも前に作るがあった。

 

だから作り手の思いが込められていたし優先されていた。

 

もちろん作り手だって売れるものを作りたいのだが、それ以前に作りたいという創作意欲の方が大事になる。

 

  • 作りたいものを作る

 

  • 必要とされるものを作りたい

 

  • より良くするために改良を加えたい

 

などなど。

 

逆に言うと、作り手には自分のこだわりを曲げてまで作りたいものはないと言えるかもしれない。

 

しかし、お客の要望に応えるというオーダーメイドの中には作り手としては納得できなくてもそれぞれに事情があるんだろうとクレームが出ないように対処した上で応じることはあるだろう。

 

 

そして現在、作りたいものが売れるものというのはむしろ少数派なのかもしれないという時代になった。

 

多くの場合、売れるだろうと思って作ったのに予想を下回ったり、本来望んでいた売り方とは違う売り方でどうにか捌くと表現した方が相応しいもので溢れるようになっている。

 

だからこそ転売という市場が活発なのだ。

 

これは形があるものの話だが、そっくりそのまま形がない情報にも当てはまる。

 

 

情報強者であったはずの既存メディアが発する情報がコタツ記事化するのも同じ構造が働くからだろう。

 

かつては価値があったはずの真実や真相よりも、見たい読みたいあるいは興味を引くものに需要が集中するのだ。

 

もちろんそんな需要の一部には真実や真相もあるが、その勢力は減少の一途、だからこそコタツ記事の需要が高まるのだ。

 

コタツ記事とは、ざっくり言うと取材をしないでネット上の情報を集めてそれを独自に編集して作ったもので、わたしを含めたブログを書いてる多くの人がごく当たり前にやってることだ。

 

これって、表現を変えると、情報の転売に該当するのかも?

 

 

そうは言っても個人でやってる場合は、これ以上はやりたくないあるいは知りもしないのに踏み込みたくないという境界をなんとなくでも持っているだろう。

 

しかし、この境界のハードルは年々下がっているはず。

 

いつの頃からか信用するにはリテラシーや自己責任が問われるようになった。

 

だからこそ真実や真相が大切だったし、それを担保するのが証拠やエビデンスだったはずなのに、その証拠やエビデンスにもフェイクや詐欺が侵食を始めて久しい。

 

日本だけの話ではない、それはアメリカにおけるトランプ氏や世界のお騒がせリーダーを見ているとよく分かる。

 

末端の我々に必要なのは、この波に乗るのか乗らないかの判断だ。

 

逆に、こういう視点で周りの人の様子を見るのも楽しいかも。