違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

定義が曖昧なことは自分で定義するしかない

元々は、そんなに大層な意味ではなかったはずのことが今ではとんでもなく高いハードルになってるということがある。

 

1948年に発効されたWHO憲章では、前文において「健康」は次のように定義されている。

 

「健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)」

 

 

日本国憲法では次のように定められている。

 

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」

 

これは日本国民の権利であり日本国が国民に負う義務だが、文化的に最低限度の生活はきちんと定義されてない。

 

だから解釈の幅が大きくなる。

 

WHO憲章が定める健康を満たす人はどの位いるのだろうか?

 

WHO憲章が発効されたのは1948年、日本国憲法の施行は1947年。

 

健康が寿命の長さを尺度にできるならば、健康は向上したことになるが、定義に照らし合わせると果たしてどうなのか。

 

 

定義されてることが有効性を発揮するためには必要な細部項目が体系付けられることがセットで必要になる。

 

しかし、細部項目の体系付けなんて統一的な解釈が成り立たない以上個人個人で対処するしかないのだ。

 

ある意味達観と同じだ。

 

現実社会で達観を手に入れるためには諦めるのは何かを理解することであるとともに、引き際の鮮やかさの実現とセットになる。

 

健康で最低限度の生活をクリアできてる人は、何もかも満たされてる人では決してない。

 

 

欲しがってばかりの人は最低限度のハードルを上げてるだけかもしれない、そしてその結果最低限のラインを満たせてないとすれば滑稽な本末転倒だ。

 

 

しかし、現実社会ではそう思いながら達観から遠ざかるという選択をする人が後を絶たない。