以下の写真は中国の不動産企業がマレーシアで行っていた巨大開発が中国のバブル崩壊で開発が途中で頓挫したいわば廃墟の写真。
写真の引用は下記サイトから
https://diamond.jp/articles/-/330154
巨大な城壁の建造が途中で止まったようにも、あるいは巨大なダムの建造が途中で止まったようにも見えた、わたしの目には。
そう思った時にこれまでとは違う感覚に襲われた。
バブルの崩壊とは、流れてくると思った需要やお金や人が流れてこないから起きるものだと感じていたが、そうではなくて、最初はともかく途中からはあるはずのない需要やお金や人の流れを受け止めるために作られた壁やダムの残骸なのかもしれないと。
そういう意味では90年代の日本のバブル崩壊はこのような巨大な残骸は残してなかったので今にして思うとバブルの程度も小さかったということだろう、当時はとてつもなく巨大なものが消えた感覚があったが。
バブルの崩壊がどのような形であれ共通してるのが、成り立つつもりのことが成り立たないと最後に思い知らされることだ。
人間活動におけるバブルとは、『もっともっと』という心理が過剰に集中する現場から起きる。
そういう現場はゴールドラッシュに魅せられた需要やお金や人が過剰に集まる。
すべてが過剰だからいずれ時間の問題で破綻する、あるいは元々何も無かったということを思い知らされる、それがバブル崩壊だ。
なぜ過剰が発生するのか?
人間は真似をする生き物だからだ。
そういえばこんな表現もある。
学ぶ(まなぶ)は真似ぶ
学べば学ぶほど真似をしたがるのだ。
学ぶことが大好きな人はバブルの崩壊から何を学ぶだろうか?
参入するタイミングと撤退するタイミングの妙で乗り切るべきだという学習をするだろうか?
それとも真似をするという学びはやめようと思うのだろうか?
いずれにしても、心の中に『もっともっと』があるかぎり人は学ぶことはやめられない。
生涯学習という言葉が皮肉に感じられる。