違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

バブルを繰り返させる夢や希望や期待

実際の価値以上に評価されることを意味するバブルは最初に使われたのはいつ頃だろうかと思いChatGPTに質問すると次のように答えた。

 

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「バブル」という言葉が実際の価値以上に評価される状況を指すようになったのは、17世紀のオランダのチューリップ・バブルが最初とされています。1630年代にチューリップの株式取引が急速に盛んになり、価格が実際の価値をはるかに超えるまで高騰しました。その後、価格が急落して多くの投資家が損失を被ったことから、この現象が「バブル」として認識されるようになりました。

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ちなみにわたしがバブルを知ったのは、1990年前後の日本のバブル景気で。

 

初めて知ると、その頃誕生した表現だと思い込むのでChatGPTの答えを見てこんなに歴史があったんだと感慨を覚える。

 

今日までの間に歴史は何度も繰り返されたことだろう。

 

バブルは最後に富を掴んだつもりの人が実はババを掴むことになるという悲劇だけがクローズアップされるが、最後を迎える直前に売り抜けた真の勝者もいるがこちらは目立たない。

 

そもそもバブルとはなにか?

 

直訳すると泡なだけに膨らんでるものとなるだろうし、シャボン玉のように簡単に弾けるものとも言えるだろう。

 

では、その中身はなんなのか?

 

欲だと指摘する声も大きいが、欲以前の夢や希望や期待の方が相応しい気がする。

 

夢や希望や期待と表現すると、パンドラの箱に最後まで残っていた罪悪が希望だったという話を思い出す。

 

 

バブルの宿命は弾けることかもしれないが、その中身が夢や希望や期待ならば次から次に誕生するのもまた宿命だろう。

 

膨らんでるバブルが巨大に感じるようになると、バブルは一つだけに見えてくる、そして弾ける姿が想像できるようになる。

 

しかし、実際には一つに見えるだけで、この世には無数のバブルがあるのだ。

 

それこそ夢や希望や期待の数だけあるのだ。

 

弾けると地獄だが、だからといってバブルの大元の夢や希望や期待を否定したいと思う人はいないだろう。

 

ところで、制限をあまり受けずに自由に発信できるSNSを見ていると、不満や怒りを吐き出すという行為もバブルのように膨らんでいるなと感じる。

 

不満や怒りを抱える人は昔からたくさんいただろうが、昔は発信したり吐き出す術が少なかったから自分の内側に溜め込まざるを得なかった。

 

つまり少なくない人々が、不満や怒りを吐き出すことが夢や希望や期待と結び付いているのかもしれない。

 

そういう種類の人にとって不満や怒りを吐き出すプラットフォームが規制されるようになることも一種のバブル崩壊のような気がする。

 

 

『踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損』、そう思う人はバブルが大好きなはず。