小林製薬の紅麹を巡る対応を見ていて思ったこと。
良い悪いという話ではなく、小林製薬にはサプリを求めるエンドユーザーは見えてなかっただろう、代わりに見えていたのは株主や取引先企業や販売チャンネルやプラットフォーム。
エンドユーザーが見えてない安定企業なんて掃いて捨てるほどいるだろう今の日本には。
こんな時に起きるのが下克上だろうなと感じた。
起こそうと思っても簡単には起きないのが下克上。
しかし、気がついたら起きているのが下克上。
由来に遡れば下克上は、下の者が上の者を殺すことでその地位を奪い取るものだった。
現代では文字通りの殺すは御法度だし、実行しても表面的には誰からも支持されない。
しかし、『殺す』が社会的な死ならば、あるいはビジネスの世界では屋台骨を背負っていた商品やサービスの賞味期限が切れた後その穴を補完する商品やサービスが出せない隙に他社にリーダー的な地位を奪われるような場合に現代の下克上を感じやすい。
下克上が起きる場合、上の立場に失脚や衰退あるいは劣化が起きてることが少なくない。
そういう意味では現代の下克上とは、盤石な地位を築いていると思われてる人や企業が気が付いたら存在感が薄らいだような時に感じる情緒的な表現に思える。
社会的な死は、犯罪や反社会的な行動がバレることや生理的嫌悪を持たれることで起こりやすい。
企業の不祥事における代表者の謝罪が世間の反感を買うような場合は下克上のきっかけになりそうだ。
芸能界、特にお笑い界では大物が失脚したことで上に上がれずにいた二番手三番手がその後釜に座ることは多い。
最初は小物感が拭えないがすぐに違和感は感じなくなる、実力うんぬんというよりも慣れの問題なのだろう。
社会的な死以外では、体力の衰えなどによる引退やフェードアウトもある、気が付いたら『そういえば最近あの人見ないね』と感じたり。
逆に、『そういえば最近この人よく見るね』というような場合は下の者が起こした下克上なのかもしれない。
現代的な下克上のパターンの一つには一攫千金もある。
何によって儲けたかはともかく、その後の人生で問われるのはその大金をどのようにマネージメントしながらどのように生きていくかだ。
そのマネージメントに成功してる人はおそらく世間で目立つ生き方はしてない気がする。
目立たないからその地位を脅かそうとする者には狙われにくいし、狙われたとしても超然として煽りに対して無関心でいなしそうだ。
下克上が起きるところには、足や足元を掬われるという現象が起きている、油断しないことに例外を作ってはいけない。