違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

ストレスと困難の違い!

情報を求めてインターネットで検索する場合や、図書館や本屋で本を探す場合に、わたしはその情報や本がいつ発信されたのか、あるいはいつ書かれたかが気になるタイプだ。

 

無意識のうちに、旧いものよりも新しいものの方が価値があると思っているのだ。

 

一方それとは別に、敢えて旧い本(旧いと言ってもせいぜい10年〜15年前以内)を読み、書かれてる内容に旧さを感じるか、それとも今でも通用してるかを比べたりすることを楽しむことがある。

 

10年〜15年前に書かれているのに今でもその内容が通用するような本を読むと、「この本の著者は10年〜15年後をきちんと予測できていたんだな〜」と感心したり、「ものごとの本質は10年〜15年程度では変わらないんだな〜」と思えたりする。

 

現代に生きてる人は老若男女問わず子供の頃から未来は機械化され自動化され、機械化も自動化も高度にコンピューター制御されることで成り立つと思い込んで来たし、事実そうなっている。

 

効率を求めるならば人間が作業するよりも機械に任せる方が確実でコストも安いという分野はどんどん増えている。

 

機械化自動化が普及する背景には、日進月歩の技術革新と、旧い装置や設備を次から次に新しいものに交換するという作業がセットで必要になる。

 

維持管理のメンテナンスだけでなく、更新頻度を高く保つことで安心や安全を担保していた。

 

更新頻度に影響を与える考え方に、価値は時間の経過とともに減少するという『減価償却』というものがあるが、これはきわめて資本主義的な考え方だ。

 

 

 

機械化や自動化は、資本主義と足並みをそろえて発展していったが、どちらもここに来て、その持続性に疑問が出てきている。

 

 

興味深いツイートがあったので紹介したい。

 

 

 

 

 

 

いろいろな分野で「循環」や「持続性」が成り立たないことが増えている、増えていると言うよりも顕在化してると言った方が当てまりそう。

 

 

 

 

「循環」や「持続性」について考えることは、華やかさは無いしなによりも儲からない。

 

しかし、「循環」や「持続性」を意識したり、実現を考えると、その延長線上にはストレスのない世界観が見えてくる。

 

ストレスがないということを考えると、退屈と同じように捉える人がいるが、ストレスがないということは本当に好きなことをやり続けるためには絶対に欠かせないのだ。

 

逆に言うと、ストレスを感じながらやってることには疑問の目を向けるべきかもしれない。

 

ストレスの多くが人間関係に起因すると言われる現代人だが、一見無関係な「循環」や「持続性」が人間関係に悪影響を及ぼしてると言うのは、興味深い事実かもしれない。

 

 

ストレスが生じると、人間は自分を守ろうとします。

 

 

 

他人を非難罵倒するような場合、話の内容に正当性があるかどうかを意識し、相手の言質を取ったり、ミスにつけ込んでマウントしたりするようになる。

 

こんな人間関係の延長線上には「循環」や「持続性」は成り立たないのは当然。

 

 

自分の身に降りかかる火の粉のようなストレスに対して抗おうとするよりも、逃げれるものならば逃げた方が良い。

 

できることなら近づかない方が良い。

 

 

間違いやすいのが、『ストレスから逃げること』と『困難から逃げること』を同じだと捉えること。

 

 

困難とは、目標や目的に向かうための障害になるもの。

 

ストレスは、目標や目的に向かうことを邪魔するもの。

 

困難からは逃げてはいけないが、ストレスからは逃げなければいけない。

 

 

今抗っているものがあるならば、それが困難なのかストレスなのかははっきり理解しておく必要がある。

 

充実感と噓!

人間は、さまざまな状況で自分の気持ち(≒本音)に嘘をつくことができる。

 

楽しくないのに笑ったり。

 

嫌い(≒飽きた)なのに受け入(容)れたり。

 

 

勉強したり練習したり修行するような場合でも、目的や目標があれば、キツくても厳しくても受け入れることができる、このような場合は自分の気持ちに噓をつくとは言わない。

 

しかし、同じことをやっていても、「これがなんの役に立つのだろう?」、「本当に役に立つのだろうか?」と思いながら取り組む場合には、自分の気持ちに噓をついていることが多い。

 

 

 

 

そんな自分自身に対して噓をつく際の主な理由や言い訳として上がるのが、

 

  • 今は我慢する時だから

 

  • 我慢すれば良いことがある

 

  • いつかは報われる

 

 

自分に対して噓をつきながら始めたことでも、途中から気持ちが変化して目的や目標ができれば、噓をつくことにはならなくなる。

 

目標や目的が明確で揺るぎなければ、長期的な取り組みを受け入れられるようになるので、途中経過で失敗したり上手くいかないことは許容範囲に収まることが多く、失敗等を含めて目標や目的に向かっていることに充実感を感じることができる。

 

つまり充実感は、自分自身と向き合ってる場合に得られる感情だと分かる。

 

いつの頃からか目にすることが増えた『リア充』は、他人の目や他人からの評価を気にしてのものなので、実際の充実感とは全く無関係なものが多い。

 

 

ところで、『充実』の反対語は何だろうか?

 

辞書を引くと、『空虚、空疎』と出てくる。

 

一生ものだと思っていた大好きな趣味が、気が付いたらいつの間にか飽きていたという経験がある人は多いだろう。

 

充実してた気持ちが、気が付いたら虚しいものになるのはなぜだろうか?

 

 

『充実』⇔『空虚、空疎』は、反対語の関係であるとともに表裏一体の関係が感じられる。

 

 

『充実』とは、本来の意味は字面通り「中が隙間なく満ちている」状態。

 

人間の行動や活動に照らし合わせると、形が常に変化していても、その中身が詰まっていることになりそうだが、体感で得られる充実感は、なにかを達成する前の方が高く、達成後は充実感が下がるように感じられるのはなぜだろうか?

 

達成前の中身が詰まって無さそうな時ほど充実感が高いのはなぜだろうか?

 

その答えを探すと、固定化された目標や目的が大事なのではなく、未達成の課題の多さが充実感と関係がありそうな気がしてくる。

 

課題を少しずつクリアしながら、少しクリアするたびに新たな課題を追加することが充実感の持続に関係してるかもしれない。

 

課題は、果てしなく遠いものだと虚しさに繋がりやすく、簡単すぎても飽きやすくなるので、程々が大事になるだろう。

 

充実感を感じられる課題(≒目標や目的)を設定できることが肝だと感じられる。

 

 

できなかったことができるようになることが、できるといいなと思ってることができることが、充実感には必要なのかもしれない。

 

できないと悔しい、そんなレベルが大事なのかもしれない。

 

できて当然のことはただの予定調和だし、できなくて当然のことはできなくても悔しくない、そういうことの周辺には充実感が無いのかもしれない。

 

 

充実感を得たければ課題の設定がとわれるが、課題の設定は純粋に自分事だから、自分自身に対して嘘をつかないことが大事になる。

 

 

課題をどのように設定するかは、センスや才能が問われる行為で、こういうところから差が付いていくのだろう。

 

時代とともに変化する『付加価値』!

お客様がいるならば、すべてのビジネスは役に立っている。

 

お客が付いているならば、この世に役に立たない仕事など無い。

 

 

少し前までだったら、これらのことばには説得力があった。

 

東日本大震災の翌年の2012年(平成24年)の公益財団法人日本生産性本部が発表した新入社員のタイプは『奇跡の一本松型』で、特徴として『想定外の困難に直面しても、それを克服することが期待される』となっている。

 

下記のように、新入社員のタイプの発表は現在は行われていない。

 

平成29年度をもちまして、新入社員の特徴とタイプの発表を終了させていただきます。

  平成29年度 新入社員のタイプは「キャラクター捕獲ゲーム型」

  平成28年度 新入社員のタイプは「ドローン型」

  平成27年度 新入社員のタイプは「消せるボールペン型」

  平成26年度 新入社員のタイプは「自動ブレーキ型」

  平成25年度 新入社員のタイプは「ロボット掃除機型」

  平成24年度 新入社員のタイプは「奇跡の一本松型」

  平成22年度 新入社員のタイプは「ETC型」

  平成21年度 新入社員のタイプは「エコバッグ型」

  平成20年度 新入社員のタイプは「カーリング型」

  平成19年度 新入社員のタイプは「デイトレーダー型」

  平成18年度 新入社員のタイプは「ブログ型」

  平成17年度 新入社員のタイプは「発光ダイオード型」

  平成16年度 新入社員のタイプは「ネットオークション型」

 

https://www.jpc-net.jp/new_recruit/typehistory.html

 

 

 

 

1973年(昭和48年)から始まった新入社員のタイプで、新入社員を手放しで讃えたのは後にも先にも2012年のみだとわたしには見えた。

 

しかし、その頃を境目に、お客がいるからといって世の中の役に立ってるとは言えない仕事が急増したように感じられる。

 

仕事やビジネスは「儲かる」ことが何より大事で、「儲け」はお客から上げるしかないから、「お客を取ることが大事」という理屈だけが独り歩きを始めたように感じられる。

 

同時に、お客の側も変化し始めた。

 

自分が何を求めているのかを、上手く表現できない人が増え始めたのだ。

 

世間には同じようなものや似たようなものが溢れ、どれを選んでも大差なさそうだが、失敗はしたくない、だけどよく分からない、そんな思いを持つ人が増えたのだ。

 

自分で調べて判断して選択できる人は少数派で、多数派は『誰か』に答えを求めるのだ。

 

『誰か』は、自分の行動半径の中に存在する人で、リアルな友人や知人からネット上の匿名の人までさまざまいる。

 

わたしが思う役に立つ仕事と役に立たない仕事の境目は、アフターフォローへの対応だと感じている。

 

もっと分かりやすく言うと、売ることですべて終了と考えてるか、売ることは付き合いの始まりだと考えてるかの違いだ。

 

そういう意味で、現代は「売ることですべて終了」という仕事が増えているように感じる、結果「役に立たない仕事」が増えていると思っている。

 

「役に立たない」とは、客や従業員の「満足できない」に近いかもしれない。

 

 

「役に立たない仕事」は「やり甲斐の無い仕事」に通じる。

 

「売ることですべて終了」という考え方は、契約的でもある。

 

範囲を限定することで、範囲外は請け負わない、又は請け負う場合は追加の別契約となる場合が増える。

 

背景には、安く上げたい消費者と、そんな消費者を相手にしながら儲けたいと考える事業者の知恵比べがある。

 

事業者は、自社の従業員を消費者と同じように捉える傾向が強いので、隙があれば従業員からも儲けようと考える。

 

仕事には貴賎は無いが、やり甲斐が無いことはざらにある。

 

 

おもしろいのは、事業者と消費者の双方が知恵を使った結果、世の中に役に立たない仕事が増えたことだ。

 

普通に考えれば、知恵を使い合えば、役に立つものが生まれそうなのに。

 

付加価値が付いてれば高くても買う、付加価値を付けれれば高くても売れる、という考え方は確かに存在していた、というのはもはや昔話だろうか。

 

付加価値がキーワードとして機能する場合は、「役に立つ」を消費者も事業者も考える。

 

こうやって考えると、付加価値を求めなくなったことが、世間に「役に立たない」が増えるキッカケになっているように思えてくる。

 

 

 

付加価値というと、プラスαされたものと感じるが、現代はプラスαは簡単にコピーされるので、プラスαという発想は付加価値にはつながらない。

 

付加価値は、コピーしたくても簡単にはできないという点に宿るはずだ。

 

ありふれた言い方をすると、オリジナリティや独自性となるが、事業者が商品化を考えるならばそれがお客に伝わらなければ意味がない。

 

一方、お客の側からすると、世間に出回る商品がどれも大差ないものであればあるほど、それを活かしてオリジナリティを出すことはいくらでも方法がある。

 

目指すところではないかもしれないが、注目も浴びずに、大して人気もない事ほど、オリジナリティに溢れていると言えるだろうし、そういうものほど潜在的な付加価値は高いかもしれない。

 

付加価値についてじっくり考えると、自分の心の中の本音に気付けるかもしれない。

 

川崎登戸の事件は現代のシンゴジラ!

川崎登戸の痛ましい殺傷事件を巡って色々な意見が出ている。

 

象徴的に取り上げられ、賛否どちらも多い意見として、『死ぬなら一人で死ね』がある。

 

 

 

 

 

報道の取材が被害者を更に追い込むということもある。

 

 

 

 

 

子を持つ親や、身近に子供がいる人には、自分自身にふりかかる問題と感じられるので当事者意識が生まれるだろう。

 

 

こういう問題を再発させないために何が必要だろうかと多くの人が考えるはずだ。

 

こういう時に一番機能して欲しいのは政治だ。

 

 

 

象徴的に取り上げられることばはもう一つある。

 

『通り魔は防げない』。

 

 

なぜ防げないかと言うと、

 

 

しかし、『対策しろ』と言う指示は出されるのだ。

 

 

しかし、その答えは、

 

 

いつものことだと言えばその通りなのだが、今回は少し違って見えた。

 

いつもと同じと言う意味では、既視感があって当然なのだが、その映像が鮮明なのだ。

 

映画シンゴジラで、ゴジラ出現を受け止めきれない首相官邸のあたふたぶりが映像として蘇るのだ。

 

怪獣映画だと思われていたシンゴジラは、実際には政治風刺映画だったとも言える、だからだろうがアメリカでは人気がなかったと言われる。

 

怪獣の出現を理解できない首相官邸は、御用学者の有識者に頼るが全く役に立たなかった。

 

役に立たないと言えば、専門用語を用いての会話だ。

 

初めての出来事を、過去に定義された専門用語で表現しようとする愚で、映画の中の会議のシーンはリアリティ溢れる滑稽さで風刺が効いていたが、日本に住んでる日本人じゃなければどこがおもしろいのかが分かりづらいだろうから、アメリカで受けなかった理由も分かる。

 

通り魔は防げないものだとしても、防ぐためにどうすれば良いかを真剣に考えてる人が日本にどの位いるだろうか?

 

 

歴史は繰り返すと言われるが、日本人が繰り返すのは『羹に懲りて膾を吹く』と『喉元過ぎれば熱さ忘れる』と思えてしょうがない。

 

 

 

 

 

今は羹に懲りて膾を吹いてる状態だから議論も活発で真剣味溢れてるが、これがいつまで続くのだろうか?

 

スパイの力は、錯覚させる力!

川崎市登戸で起きた痛ましい殺傷事件やファーウェイを巡る問題の共通点として、情報をどのように処理することが望ましいのかということがある。

 

情報化時代と言われるようになって久しいが、情報とは何だろうかが今日の話。

 

情報化時代が求める情報は、自らに有利な情報。

 

有利な情報を早く手に入れ、その情報を独り占めすることを理想とすることから始まったが、それは有利な情報の多くは秘密や機密として扱われていたから。

 

情報が武器になることが周知されると、情報は入手するだけでなく発信することの価値も周知されるようになった。

 

情報の入手は調査研究やスパイというジャンルとして発展し、情報の発信は広告宣伝として発展していった。

 

 

今回起きた川崎での殺傷事件を受けて再発防止のために何ができるかが議論されているが、そんな再発防止案の中には、類似事件を起こした犯人の属性をプロファイルし、その人物像に合致する人物を予めリストアップし、街中に設置されてる監視カメラで自動追尾の監視対象にするという案や、最新の監視カメラには人間の感情を読み取る機能が付いているので、感情が不安定な人をカメラが捉えたら自動で警察に通報が入るシステムを確立するべきという案が出ていたりする。

 

子供が犠牲になった殺傷事件を受けての案だと思えば異論はないが、命や安全が目的だと許容できる考え方も、利害を目的としたものに活用範囲が広げられるとしたら不快感を感じる人も多いだろう。

 

情報の処理をする場合に、可能な技術を最大限駆使する方法と、道義的な合意を取り付けることを重視するという方法が対立関係になりやすい。

 

『モーニングショー』、防犯カメラを“監視カメラ”と批判? 「あの事件の翌日になぜ…」と物議

昨年12月から東京の「バスタ新宿」で、国交省がテロ対策の実証実験をしているといい、「防犯カメラで不審人物や不審物の置き去り、不審行動を検知する」「不審人物、不審行動をカメラで自動的に追尾する」、また、東京メトロ・霞ヶ関駅で「ボディースキャナーで危険物をチェックする」などが取り上げられた。

 

しかし、これについて視聴者からは、「登戸のあの事件の翌日になんで防犯カメラに反対しようと思うんだろう…」「それで治安が維持されるなら全然いい。防犯カメラに映ると都合が悪いのか?」「一般人なら防犯カメラは防犯カメラ、監視でも何でもないけどね」という批判が噴出している。

 

 

 

ところで、カメラが捉える情報だと、情報は真実で、その真実をどう解釈するかが問題になるが、解釈の仕方を間違えば真実から遠ざかる。

 

つまり、どんな情報であっても加工が可能な限り真実と嘘の無限のグラデーションが描かれる可能性がある。

 

アメリカが躍起になって排除しようとする中国のファーウェイ社の問題にも類似の構造が感じられる。

 

情報戦で有利に立ちたいと考えるとスパイ活動に熱心になるが、スパイ活動に熱心になるほどに、スパイされることは嫌がるようになる。

 

情報戦で有利を築きたいと考える場合に考えることは、規模や立場に関係なくほぼ同じで、敵やライバルより情報の質と量で上回っていたいということ。

 

情報を発信する側にも、情報を受け取る側にも、同じような意図がありながらも、そのために取る行動が違えば結果は大違いというのが次のツイート。

 

 

情報化時代の情報とは決して真実とは限らないと思っておいた方が良いのかもしれない。

 

映画や小説でよく見るスパイという職業は、味方に有利な情報を集め、敵に不利な情報をばら撒き、時には敵の組織を直接的に攻撃したりする。

 

そんな直接的な攻撃ですら情報化しているのが現代。

 

情報が兵器と化し武器になっている。

 

 

 

武器と化す情報には、完成度の高さは必要はない。

 

信じさせることができれば嘘でも構わないが、知る人ぞ知る情報であれば尚一層強い力を持つことになるはずだという意味では、情報の力とは錯覚させる力とも言えそうだ。

 

 

現代社会で生きるということは、情報戦を繰り広げることと言える。

 

現代に生きてるというだけでスパイと言えるのだ。

 

 

川崎市登戸の事件では、自殺した犯人の動機を巡ってさまざまな憶測が流れている。

 

この憶測も情報の一種だ。

 

そんな憶測の一つに、犯人が世の中を恨んでいたというのがある。

 

当たらずとも遠からずだろうと感じる。

 

そして、犯人が世の中を恨むに至った事情の多くは、犯人が入手した情報が影響してるはずだ。

 

 

現代人は皆、自覚がないかもしれないが情報戦を行なっている。

 

 

月日が流れ、ずっと未来の人々には、情報戦を躍起になって展開する現代人の情報戦はきっとこう見えるだろう。

 

 

この句は、芭蕉が昔繰り広げられていた戦いを思って詠んだ句と言われている。

 

 

平泉は奥州藤原氏が繁栄を築いた地。兄・源頼朝に追われた義経は、藤原秀衡のもとに身を寄せる。しかし秀衡の次男・泰衡に襲われ30年の生涯を閉じた。芭蕉が訪ねる500年ほど前のことである。

夏草や兵どもが夢の跡(なつくさや   つわものどもが  ゆめのあと)

 

 

真実や特ダネを求めて展開されてるように見える情報戦を行なっているのは皆スパイだが、最大の目的は錯覚させることにある。

 

しかし、錯覚させることに失敗すると極秘の話が表沙汰になる。

 

結局ファーウェイを巡る問題も、スパイとスパイが喧嘩してるだけなのだと分かる。

 

 

情報の戦いに勤しむ現代の兵(つわもの)こそがスパイだが、その存在自体が錯覚と言えるかもしれない。

 

 

リラックスできない人がやってること!

リラックスすることが大事であることをさまざまなメディアが伝えているし、緊張する現場で活躍するトッププロもリラックスがパフォーマンスを発揮するためには重要だと力説する。

 

こうすればリラックスできるという話はたくさんあるが、果たして効果的にリラックスできているだろうか?

 

わたしがリラックスということを意識したきっかけはスティーブ・ジョブズだ。

 

iPadがリリースされた時に、「iPadはPCに置き換わるものか?」という質問を受けた際に、スティーブ・ジョブズは「Lean-BackStyle」と答えた。

 

これは、「リラックスする」と訳されていたが、それよりも反対語にあたるLean-Forwardを想像する方が分かりやすい。

 

Lean-Forwardは、机に向かって勉強する姿勢。

 

少し前屈みになった姿勢で、「さあ、やるぞ」という気持ちが現れた姿勢だと言える。

 

 

つまり、リラックスとは「さあ、やるぞ」という気持ちの反対側に存在してるのだ。

 

 

一生懸命でまじめが美徳とされる日本人は、何事であれやるからには一生懸命にまじめに取り組もうとする。

 

何事にもLean-Forwardで取り組もうとする日本人は、Lean−Backもやるからには一生懸命だろう、だからリラックスできないのではないだろうか?

 

 

一般的には太っていて運動不足の人が患うのが高血圧だと言われるが、さほど太っていない日本人に高血圧は多い。

 

日本では高血圧患者が多く、平成22年に行われた厚生労働省による国民健康・栄養調査では、30歳以上の男性の60%、女性の45%が高血圧であるとされています(図)。年齢とともに高血圧患者の割合は増加しますが、特に男性では30代でも5人に1人、40代では3人に1人が高血圧であり、中壮年期においてもきわめて有病率が高くなっています。また、女性でも50代から高血圧患者が増え始め、60代以降は男性と同じくらいの割合が高血圧と考えられます。

別の国内の調査では、日本人全体として高血圧患者は約4,300万人いると推定されており1)、日本人のおよそ3人に1人が高血圧という状況です。

 

 

 

WHOの調査によると、18歳以上で高血圧の人の割合は、日本では男性21.4%、女性12.7%とされています。これは、ドイツ(男性:24.2%、女性:14.9%)やフランス(男性:26.3%、女性:16.0%)よりもやや低い割合ですが、米国(男性:15.9%、女性:11.1%)や英国(男性:18.0%、女性:12.5%)、韓国(男性:13.2%、女性:8.4%)などよりも高い割合となっています3)。

 

引用は二つとも下記のサイトから。

 

https://www.healthcare.omron.co.jp/zeroevents/bloodpressurelab_basic/contents1/314.html

 

 

わたしには、リラックスできないことと高血圧の間には強い関係があると思えてならない。

 

 

日本人の場合、リラックスしようとしてもまじめに一生懸命にリラックスしようとして、かえって逆のことをやっている人が多いように思える。

 

 

高血圧の中に早朝高血圧がある。

 

朝起きて、これから活動するから血圧は上がって当然なのだが、早朝高血圧の中には、夜寝てる間に血圧が下がらない人がいる。

 

そのような人は、寝ている時でさえリラックスできていないのだ。

 

何事にも一生懸命でまじめな人は、悩み事や心配事ができるとこれにも一生懸命取り組んでしまう。

 

何事にも一生懸命でまじめな人に悩みや心配を探すことにも一生懸命なので、一生懸命地獄から抜け出せず、血圧も上がりっぱなしでリラックスからどんどん遠ざかる。

 

一生懸命にリラックスに取り組むことは、ただのストレスにしかならない、そんな人が大勢いるような気がする。

 

 

自分で自分のことをまじめで一生懸命なタイプだと思う人は、その生き方を改めることが必要かもしれない。

 

 

良かれと思った生き方が、自分を蝕んでいるとするならば、早くそのことに気付いた方が良い。

 

残酷なことに、力を抜くだけで良いはずのリラックスにも、センスと才能が求められるのだ。

失言は本音!?

先月4月17日に亡くなられた漫画家の小池一夫さんは、その少し前に次のようなツイートを発していた。

 

 

 

このツイートの後でも相変わらず国会議員の本音の失言は続いている。

 

本音にも様々あるが、言えば失言になる本音には普段はブレーキがかけられているのかもしれない。

 

言っても大丈夫な人だけを選んで喋っていたり、喋る際には何らかの保険をかけているだろう。

 

そんな保険は、配慮と呼ばれたり、計算と呼ばれたりするが、そんな保険が機能しない場合がある。

 

 

本音に保険をかける場合の無難な方法として、わたしも活用するのが、他人の言葉の引用だ。

 

しかし、引用する場合には注意点や覚悟が必要になる。

 

 

 

誰かの失言が、別の誰かの本音であるような場合、失言は本音の代弁となる。

 

この構造に人間関係の上下関係が介入すると、失言の大元に忖度があることが想像できる。

 

 

たった一言、されど一言!

 

一言から始まる関係もあれば、一言が原因で終わる関係もある。

 

人を救う一言もあれば、人にトドメを刺す一言もある。

 

いつまでも覚えてる一言もあれば、すぐに忘れる一言もある。

 

嫌われる一言にはデリカシーが無く、好かれる一言には思いやりがある。

 

 

さまざまな影響力を持つ一言には、嘘と本当がある。

 

結果が良ければ、嘘も方便と言われ、決して悪いことではない。

 

 

本音が悪いわけではないはずだが、失言をした場合は、その失言は本音だと烙印を押されてしまうとするならば、本音は隠すものやオブラートに包むものになるのは自然な流れだ。

 

 

 

 

 

勝ち誇ったように、『失言は本音だ!』と責め立ててると、巡り巡って良くない流れが生まれるのかもしれない。

 

 

今まであまり意識したことなかったが、『罪を憎んで人を憎まず』ということは考える価値があるのかもしれない。