違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

自由の反対語はハラスメント!?

表現の(不)自由が話題になっている。

 

舞台は、国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019

 

芸術監督は津田大介氏。

 

youtu.be

 

上記の解説から肝になる部分を抜き出してみると。

 

あいちトリエンナーレを企画するに当たり愛知県から要求されたことは次の3点だと説明。

 

あいちトリエンナーレ3つのコンセプト

 

そして、その要求に沿うテーマとしてを選択し、その理由を次のように説明している。

 

あいちトリエンナーレ テーマ

 

 

あいちトリエンナーレ テーマ(2)

 

 

あいちトリエンナーレ テーマ(3)

 

 

あいちトリエンナーレ テーマ(4)

 

 

 

その結果生まれたのが「表現の不自由展・その後」、そしてこで展示された平和の少女像。

 

平和の少女像は韓国の従軍慰安婦問題を象徴し反日の姿勢を示すとされていて、日本人には平和なものには思えない人が多いのだろう。

 

そこで非難が殺到し、脅迫状が送られるに至って展示が中止された。

 

この一連の流れの中で、Twitterなどを見てると津田大介さんへの個人攻撃が多いように感じていた。

 

そこでGoogleTrendsで直近7日間の「津田大介」「あいちトリエンナーレ」「表現の自由」「表現の不自由」「平和の少女像」を比較してみた。

 

GoogleTrends 津田大介

 

こうして比較すると、やはり津田大介さん個人への反応が圧倒的だということが感じられる。

 

ちなみに、「平和の少女像」はほかに「従軍慰安婦」に関連するワードでも比較したが、どれも反応は低調だった。

 

典型的なノイジーマイノリティの大騒ぎなのだが、そこに政治が関与してるところが如何にも日本的だ。

 

世の中には、表現の自由以外にも自由とセットで語られることがたくさんある。

 

代表的なものに、

 

  • 言論の自由

 

  • 宗教の自由

 

  • 集会・結社の自由

 

  • 職業選択の自由

 

などがあるが、いずれも不自由だった状態から取り戻した自由なのだが、自由が当たり前になると、自由を封じ込めようとする自由が出現してくるようだ。

 

一方に存在する自由を封じ込める場合に機能するのが、不愉快を強いられるという意味でのハラスメントを拡大解釈すること。

 

ハラスメントを訴える声を集めると、本来の自由の良さが脅かされることに繋がりかねない。

 

ハラスメントは、もともとは弱者が強者に対抗するものだったはずだが、強者が弱者を抑え込むためにも活用されるようになっているような気がする。

 

わたしは、津田大介さんの名前は知っているが、活動をほとんど知らないので、津田さんのアンチが何を嫌がっているのかを十分に理解できない。

 

しかし、津田さんを攻撃するアンチは声は大きいが勢力としてはマイナーな少数派だと思える。

 

政治を含めた強者の意を受けて活動してるノイジーマイノリティが、ハラスメントを武器に自由を封じようとしてるように感じられる。

似て非なる『保守的』と『所与性』!

3人に1人が65歳以上という現代では、65歳以上を抜きにビジネスやサービスは成り立たない。

 

そんな65歳以上だが、65歳未満の世代からはお年寄りとか老人と呼ばれるが、本人たちはそうは思っていない人が多いことでも知られている。

 

そこで商売っ気を剥き出しにする業界ではシニアという呼称を当てはめたが、これもそっぽを向かれてる。

 

シニアというのは自分のことではなく、自分より年上の人のことだとお年寄りも思っているからだ。

 

だから自分に向けられたことばだと実感を持てないのだ。

 

更にいうと、65歳以上の人達が自身のことをシニア(老人やお年寄りも含めて)と思っていないというよりも、自分より年下の他人にシニア呼ばわりされることが不愉快なのだ。

 

と考えると、どんな呼称を与えても受け入れることは無いような気がする。

 

マンガ「サザエさん」に出てくる波平さん(おじいちゃん)は年齢54歳という設定らしいが、日本では終戦後の数十年でシニア層のイメージが大きく変わったことが波平さんの設定からも感じられる。

 

ちなみに、マーケティング業界ではシニア層の特徴の一つとして保守的だと位置付けることが多い。

 

 

ウィキペディアでは保守を次のように説明している。

 

従来からの伝統・習慣・制度・社会組織・考え方などを尊重し、革命などの急激な改革に反対する社会的・政治的な立場、傾向、思想などを指す用語。また、そのような政治的な立場を奉ずる人物、勢力も保守、あるいは保守主義者(conservative)と呼ぶ。対義語はリベラル進歩革新など。

 

 

過去や伝統に強い拘りを示すことばには二種類ある。

 

『保守』と『所与』。

 

似てるようで違いも感じられるこの二つのことばについて書いてみた。

 

内容的には独断と偏見を交えた、だからどうしたというレベルの話。

 

 

変化することを嫌がるというのが共通点だが、保守の場合には変化しない方(変化する前)が良い状態だと考えているのに対し、所与性を大事にする人達は良かろうが悪かろうが変化して欲しくないと考えている。

 

保守の面白いところは、今現在の状態が変化の結果たどり着いた状態だとした場合でも、変化前に戻りたいと望むことだ。

 

保守的な人にとっての理想は過去に存在するので、伝統やしきたりを重視する。

 

同じく伝統やしきたりを重視するのが所与的な人だが、所与的な人にとっての理想は現状維持

 

 

これを『若さ』や『健康』をテーマにしてシニアマーケティングに当てはめると、

 

保守的な人たちは、実質的な若返りを望むことになるのだろうか?

 

それに対し、

 

所与的な人たちが望む現状維持は惰性的でもあり、哲学的でもある。

 

 

『若さ』や『健康』を望むとしても、保守的な人が望んでることと、所与性を求めてる人とでは、ふさわしい商品やサービスは全く違ったものになりそうだ。

 

保守的な人が求める『若さ』に対処する場合は整形手術も選択肢に入るかもしれないが、所与性を求める人にとっては「適度な運動」が求める答えということもありそうだ。

 

 

『保守』の反対語としての『革新・リベラル』は、

 

『シニア(年寄り)』に対する『若者』ようであり、

 

『アナログ』に対する『デジタル』のようでもあるが、

 

 

いずれも本来は対立したり、反対に位置付けられる概念ではなさそうな気がする。

 

保守も所与(性)も基本は、伝統やしきたりを重んじ、そこから外れた振る舞いをしないことで、伝統的な祭りが女人禁制だったりすることに名残りが感じられる。

 

保守も所与も過去が大事だが、保守はその伝統やしきたりの由来に拘るが、所与は由来など気にしない、という違いがある。

 

最近、半グレという存在が話題になるが、従来のヤクザが保守的な任侠道に基づく人間関係の上に成り立っていたのに対し、半グレは行動パターンは似ていても全てがビジネスライク。

 

ヤクザは保守的で、半グレは所与的だと言えそう。

 

所与(性)ということばをはっきり認識したのは1年前だが、保守と比較することで「変化を嫌がる」気持ちにも種類があることが分かった。

 

 

そんな気持ちは実生活の場では、慣れ親しんだものに愛着を感じさせるので、不便だったり非効率でも、さほど不満も感じずに許容してることがたくさんありそうだ。

 

 

子供の頃の話だが、幼稚園の時まで母をママと呼んでいた。

 

まもなく小学校に入学するという頃のある日、「今日からはママじゃなくてお母さんと呼びなさい」と言われて、非常に傷ついたことを覚えている。

 

この気持ちは、きっと心のどこかに芽生えていた所与性を求める気持ちのせいだったんだなと思い出した。

 

それなりに人生を重ねると誰の心にも、「ああ、このままずっと続けば良いのに」と思ってることの一つや二つはあるはず、そんな気持ちにも保守性に起因するものと、所与性に起因するものがある。

 

その違いを知ったからといって得をするとは限らないが、損をすることはないだろう。

 

ダルビッシュvs張本氏!

今日8月4日のTBS系のサンデーモーニングを楽しみにしていた。

 

スポーツコーナーで張本氏がどんな発言をするのかと。

 

事の起こりは一週間前のサンデーモーニングでの張本氏の発言。

 

 

張本氏の発言は、『夏の高校野球岩手大会の決勝で、花巻東と対戦した大船渡が、エース佐々木朗希投手を起用せずに敗れたことで、監督が起用を見送った理由が佐々木投手の肩の疲労に起因する選手生命が断たれることを避けたため』という事を受けてのものだった。

 

張本氏の主張は、

 

最近のスポーツ界で私はこれが一番残念だと思いましたよ。32歳の監督で若いから非常に苦労したと思いますがね、絶対に投げさせるべきなんですよ

 

(中略)

 

けがを怖がったんじゃ、スポーツやめたほうがいいよ。みんな宿命なんだから、スポーツ選手は

 

 

というものだった。

 

この発言を受けて、異議を唱えたのがダルビッシュだった。

 

 

スポーツに関して一家言も二家言もあるスポーツ界の現役選手やOBやファンの間では賛否両論大きな議論になっていた。

 

この一週間の張本氏をGoogleTrendsで見ると、

 

GoogleTrends「張本」直近一週間

 

張本氏の先週の発言は、放送直後にはあまり話題になっていなかったが、その後ダルビッシュが異議を唱え、その事を各種メディアやSNS上で話題になりはじめ1日経過してピークを迎えていたことがグラフの動きから見て取れる。

 

そして、今日の放送(スポーツコーナーは8時40分ごろから)で張本氏が何を言うかと大きな期待が寄せられていたことも見て取れる。

 

ちなみに、このグラフにダルビッシュも加えると、

 

Google Trends「張本」「ダルビッシュ」直近一週間

 

この話題に火種を投げ込んだのがダルビッシュの発言であることがよく分かる。

 

ダルビッシュがTwitterを使いタイムリーに発言を連発するのに対し、張本氏もダルビッシュの発言に対して反論していた。

 

 

このような流れの中で、今日の放送での張本氏の発言が大きく期待されていたのだが、全く何も触れずに拍子抜けだった。

 

 

 

さて、この勝負どっちが勝ったのだろうか?

 

私の目には、張本氏がシカトを決め込んだように振る舞いながら逃げたように見えるが、皆さんはどう感じるだろうか?

 

サンデーモーニングのスポーツコーナーで張本氏のパートナーをやっていた故大沢親分はこの騒動をどう見てるのだろうか?

 

結果的にはガッカリだったが、久しぶりにワクワクしながらテレビでコーナーが始まるのを待っていた。

 

そういう意味では、張本氏とダルビッシュには感謝したい。

 

※文中ではダルビッシュは敬称を使わず呼び捨てにしたのは敬称が馴染まない気がしたから。

 

 

リアクションと脊髄反射の違い!

何かについて考えようと思う場合、例えば子供の頃の夏休みの自由研究を思い出すと、テーマは自分の内側から探すことが多かった。

 

何かをしなければいけない時、子供だったらほぼ間違いなく自分自身が何をしたいかを考える。

 

自分の内側に無いものには興味を持てないのが子供だからだ、こういう子供の特性は今も昔も変わらないのだろうか、それとも時代に合わせて変化してるのだろうか?

 

しかし、ある程度以上大人になると「自由に課題を選んで取り組め」と言われたら、自分がやりたいこという動機以外にさまざまな理屈や打算を持ち込み出すようになる。

 

  • 他人とテーマが被らないように

 

  • それなりに体裁が取り繕えるように

 

  • より高い評価が狙えるように

 

 

このようなことが関心事になると、自分のやりたいことよりも、他人がやってる事や、やろうとしてる事の方が気になり出す。

 

逆に言うと、大人になると心底やりたい事は案外少ないのかもしれない。

 

『子供は動くものに興味を持ち、大人は動かないものに興味を持つ、椅子に興味を持つようになったら立派な老人だ』という話を聞いたことがある。

 

動かないものに興味を持つ事が大人になることならば、大人の行動は能動的と言うよりも受動的なものにならざるを得なくなるのはしょうがない。

 

だから、自由に好きなことやって良いよと言われても、他人がどのように行動するのかを気にしてしまう、何だか典型的な日本人に思えてくる。

 

日本人て大人なんだなと改めて感じるが、当然良い意味ではない。

 

結果、日本人的な大人は他人の出方を見て自分の行動を決めるという『リアクション型』の行動を取る人が多くなる。

 

リアクション型の行動は、改良したりアレンジを加えることには効果を発揮するが、オリジナリティを創出する事は苦手だ。

 

わたしがブログを書いていても自分自身にそう感じることは多い。

 

本当に書きたくて書いているというよりは、書けるネタを探して、そのネタにリアクションをしてることが多い。

 

ブログを書き始めたのは2016年の8月からだが、その年の春から今年はブログを始めるぞと思い練習をし始めた。

 

練習のテーマに選んだのは、『乙武洋匡さんの五股不倫』という当時大盛り上がりの話題だった。

 

この話題はもちろん大炎上になったのだが、火に油を注いだのは、被害者である奥さんに謝罪させたことだった。

 

当時この話題に接した私は、この話題だったら書くことなんて山ほどあるだろうと書いてみようとしたが、何も書けないのだ。

 

書くことはいっぱいあると思っているのに、書き出しのことばすら出てこない。

 

しょうがないので、他人が書いた乙武さんの行動を非難したブログをいくつも読んだが、「これだよ、これを書きたかったんだけどな〜」という感想の連続と、「俺が書いたってこれ以上には書けないしな〜」という思いの連続だった。

 

その後も、折に触れてこれだったら書けそうだと思える世間の出来事にリアクションを試みたが、なんだかしっくりこないの連続だった。

 

そうこうしてるうちに夏になり、今年中にブログを始めるのは無理っぽいなと思い始めた頃に、ふと春の乙武さんの出来事を思い出して気付いたことがあった。

 

五股不倫が発覚した乙武さんの話題にリアクションしてるつもりだったが、実は正義を振りかざす脊髄反射をしてただけだったんではないかということに。

 

そこで思い立ったのが、乙武さんの行動を正当化し援護することはできないだろうかという発想だった。

 

そうすると、意外と書けるぞという気になってきた。

 

ブログのタイトルを『違う見方』としたのは、その時の想いを表現したからで、我ながら上出来だと思っている。

 

 

この経験を踏まえての反省は、リアクションしてるつもりなのに意見や考えがまとまらない時は脊髄反射をしてることが多いということだ。

 

 

脊髄反射をする時は、善(=正義)vs悪(=間違い)のように二項対立でものごとを見てる時。

 

しかし、世の中で起きる出来事は実際には無限のグラデーションを描いている。

 

 

脊髄反射を止めたい場合は、脊髄反射してる感情の正反対を正当化することを考えると良いだろう。

『ダメ社長』から学ぶこと!

日本が衰退するのは日本企業の社長の器に問題があるからではないかとふと思えてきた。

 

今年になって肝心な時に社長の頼りなさが露呈する出来事が頻発しているような気がする。

 

たまたま話題になってるだけなのか?

 

個別の出来事だと思って見てると見過ごしそうだが日本企業全体に関係する伝染病を患ってるような状態なのではないだろうか?

 

2019年に入ってからの不祥事の中から経営者や現場のトップにいる人の頼りなさが露呈した出来事を集めてみた。

 

 

このような事件は株価に影響することが多いのだが、

 

 

この程度のことでは株式市場が動揺しないということは、表沙汰になることが少ないだけで珍しいことではないからなのかもしれない。

 

 

同様の出来事は空の上でも起きていた。

 

 

たくさん載せてもしょうがないが、全日空及び全日空系列は機長や副機長の飲酒発覚が実に多いことは検索するだけで分かる。

 

2019年に入ってからと絞り込んでると出てくるのは全日空ばかりだが日本航空で飲酒問題が発生してないわけではない。

 

 

以上は、経営者ではなく現場のトップの話だが、経営のトップの不祥事としては2018年の後半から2019年の前半は日産自動車のカルロスゴーン氏が不明朗な多額の報酬や経費を巡って日本とフランスの外交問題にまで発展しながら糾弾されていた。

 

ゴーン氏は日産の業績を回復させたことが大きく評価されていたが、その回復が過酷なリストラに依存していたからと考える人々からはあまり評価されていなかったのに報酬や経費を使い放題なのが糾弾であり解任の動機となっていた。

 

しかし、ゴーン氏が去った日産を率いた西川社長が取った手法が、

 

 

一体何を学んでいたのかと言われてもしょうがないかもしれない。

 

日産のリストラ話も最近の話だが、この話以上に経営者のダメぶりを示す出来事が立て続けに起きている。

 

吉本興業であり、セブンイレブンの7payであり、日本郵便のかんぽ生命の売り方で発覚した社長対応のお粗末さであり、誠意の無さの露呈だ。

 

吉本興業の岡本社長は多くの人がテレビを通じて見ただろうからあえて触れる必要はないだろう。

 

これらの会社の社長の受け応えに共通してるのが下記の二つのツイートに書かれてること。

 

 

 

社長をはじめとする経営陣や現場のトップの資質が著しく低下してるのかもしれない、一部の会社でたまたま起きてるだけの事とは思えなくなる。

 

日本全体に蔓延っている“空気”を如実に表しているのかもしれない。

 

ここで取り上げた話題の場合、多くの人々は被害を受ける側になることが多いかもしれないが、このような“空気”の影響をすべての人が受けてるとすればいつ加害者側に回るか分かったものではない。

 

トップにいる人ですらおかしな振る舞いをするというよりも、トップにいるからおかしなことをすると思って心の準備をした方が良いかもしれない。

 

ダメ社長が起こすおかしな出来事を見た場合は、「人のふり見て我がふり直せ」の気持ちが大事になる。

 

 

『少し残念』という美徳!

どんな人から影響を受けているか?

 

この問いには様々な答えがあって当然だし、模範回答などもちろん無い。

 

代表的なものを箇条書きで上げると、

 

  • 親兄弟や血縁関係のある身内

 

  • リアルな知り合いとしての友人知人や学校の先生や職場の同僚や上司

 

  • メディアの向こう側にいる著名人や有名人(ジャンル問わず)

 

以上で上げたものは直接知ってる人であり、情報として間接的に知ってる実在の人物。

 

これ以外に、

 

  • すでに他界していて実在しない歴史上の人物

 

なども該当することがあるだろう。

 

すでに実在しない人物から影響を受ける場合の決め手は、その人物がどのように描かれた情報に接したかだ。

 

情報を発信する側がどのようなキャラクターを与えて描いていたか、事実関係にどのような演出や誇張が施されているかで与える印象が異なるので、情報の受け手が受ける印象にも影響を及ぼすはずだ。

 

ここまでは、実際に存在したリアルな人物に影響を受けることがあるという話だが、現代では架空の人物から影響を受けることも増えているのだ。

 

マンガやアニメやゲームなど、キャラクターを与えられた人物がバーチャルな世界で活躍するストーリーが無数にあり、エンターテインメントの世界であり架空の世界だと分かっていながらも、その世界観に感情移入し影響を受けることが増えている。

 

また、現実に存在してる世界とバーチャルな世界の中間にアイドルというジャンルが存在していて、しかも大人数のグループが増えたことで分散しがちな影響力をひとまとめにする力を持つようになっている。

 

マンガやアニメやゲームやアイドルが好きな人々(=ファン)は、消費の牽引力が高いので常に商業的にターゲットにされるが、それはマンガやアニメやゲームやアイドルが如何に大きな影響力を持っているかであり、ファンが如何に影響を受けているかを示している。

 

ファンの深層心理には完全無欠な理想の実現を望む気持ちがあるが、実際に惹かれるのは完璧なようで「少し残念」なところも持ち合わせてるキャラクターだ、こういうのも「萌え」の一種かもしれない。

 

影響を受けるときには強い感情移入が働くが、完全無欠なキャラクターには感情移入せず、「少し残念」なところがあることで自分でも近づけるかもしれないと気持ちが動きやすくなるのだろう。

 

愛される「少し残念」は決して欠点ではなく、自分にも「あるある」「そうそう」と当てはまりそうな事のこと。

 

 

一方、リアルな人間関係の中では「少し残念」を通り越した「残念だらけ」の人ばかりが目立ってしまう。

 

「少し残念」が活きるのは一見完璧な人の場合だが、こういう話をすると「ああ、それ俺のことだ」と思う人が出てくるもので、わたしの周りもいるが、彼の口癖は「俺っていつまでも少年の心を忘れない男なんだ」で、その口からはいつもセクハラが飛び出している。

 

 

「少し残念」は美徳だが、「かなり残念」は悪徳。

 

 

自称「少し残念」は、「かなり残念」な場合がほとんどだ。

 

夏バテをなめてはいけない!

全国的に典型的な夏の始まりとは違った趣で2019年の夏は始まった所が多そうだが、7月も最終日になると全国的に猛暑、酷暑の夏となっているようだ。

 

昭和の頃は楽しい季節だった夏は、21世紀になると厳しい季節の趣が強くなっていったのは決して気温の上昇のせいだけではなさそうな気がする。

 

気温の上昇を含めて、心と体に悪影響を及ぼす要素はざっくりとストレスと呼ばれる。

 

GoogleTrendsでストレスを検索可能な2004年以降で見ると、順調に増えていることが分かる。

 

GoogleTreds「ストレス」2004年以降のグラフ

 

今ではすっかり日常会話の用語としても定着したストレスだが、個人的にはストレスが最も猛威を振るうのが夏だと感じている。

 

歴史を振り返ると、人間を含めて生き物にとって大敵だったのは寒さだったが、厳しい暑さも大敵となる。

 

日本の夏のように高い湿度を伴った高温は、直接的には体の表面を攻撃してくるが、結果的にやられてしまうのは体の内側になる。

 

汗をかき過ぎることで身体に必要な水分の不足を招き、そのことが血流に悪影響を及ぼし高血圧を促進し結果的に内臓機能にダメージを与えることが増える。

 

冷たい飲み物を摂取することも内臓を弱らせるが、火照った身体を冷やすためには冷たい飲み物が必要な場合もあるのでややこしくなる。

 

暑さや湿度や食べ物や飲み物を意識すれば良いだけだったら単純な自己管理であり体調管理だが、現代社会には自己管理の範囲を超えてのしかかってくるストレスがある。

 

ストレスの代表は人間関係やその人間関係から生じるプレッシャーだったりだが、プレッシャーの中には自己実現のために自分で自分に課すプレッシャーもある。

 

ストレスの多くは気持ちの踏ん切りさえ付けることができれば捨てたり、投げ出したりできるのだが、そのことについて考えることもストレスになる場合がある。

 

弱った内臓機能とこれらのストレスが合わさるとダブルパンチで効いてくる。

 

夏の体調不良は夏バテと一括りにされることが多いが、あまりにも普段との違いを感じるならば医者に見てもらった方が良いだろう。

 

ヤブ医者だったらどうしようという心配もあるだろうが、今時は採血し血液検査をするから極端に変なことは起きない。

 

最もやってはいけないことは、症状に合いそうな市販の薬を何種類も買って使ったりすることだ。

 

薬は間違って使うと、弱った内臓にトドメを刺すことすらある。

 

 

夏になると思い出すわたしの反省がある。

 

本当の原因は何だったのか結局分からずじまいだが、5年前の夏、勝手に夏バテだと思い様々な薬を飲み、すぐには病院に行かず秋まで待って体調が回復しないので病院に行ったら、腎臓が一つ死んでるかもしれないと言われた。

 

腎臓が二つとも正常に機能してる状態を100だとすると、腎臓1個では30の能力しか発揮できない、そしてその機能が13になると人工透析になると言われた。

 

父を人工透析で亡くしているので透析生活の大変さはよく知っている。

 

 

幸い、死んだかに見えた腎臓は生きていて、回復は無理だろうと言われたがゆっくり少しづつ改善している。

 

 

5年前の夏、夏バテだと感じた疲労感はおそらく当時の仕事のストレスのせいだと思っている。

 

ストレスをバカにしてはいけない。

 

ついつい頑張る癖がある人にとって、日本の夏は要注意だ。

 

一時は透析予備軍にカウントされていたわたしは透析に備えて腕の血管を守るために、現在でも採血は手の甲の血管で行なっている。