違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

今さらながらiPad Pro(第2世代)の中古を購入!

世間がブラックフライデーで沸いている(?)中で、わたしはひっそりと中古のiPad Pro(第2世代)を買った。

 

使い始めて間もないが使用感をレポートしてみたい。

 

4年半の間結構な使用頻度でiPad Air2(64GB)を使ってきたが、1年くらい前からそろそろ替え時だなとは感じていた。

 

使えてはいるがヘタってきた感じは受けていたし、一応許容範囲のつもりではあったが全体に遅い反応が気になるようになっていた。

 

カメラをosmopocketにしたことで編集もiPadでやってみたいなとも思うようになったので、そこそこのスペックで容量も256GBは欲しいなと思うようになっていた。

 

この1年ずっといろいろなレビューを見続けていたが、候補はiPad Pro(第3世代)と新型のiPad Airに絞り込んでるつもりだった。

 

大は小を兼ねるという意味でスペックが高い方が無難だとも思っていたが、第3世代のPro購入者の中には過剰なスペックを活かすアプリが無いからありがたみが感じられないという意見もあった。

 

いろいろなレビューを見る中で第3世代のiPad Proに関してのわたしにとってのネガティヴは、顔認証のフェイスIDや従来のLightning端子ではないUSB -C端子であることやイヤホン端子が無いことで、どうでも良さそうなことが引っかかり続けていた。

 

レビューではフェイスIDの反応に不満を感じる人は意外に多く、わたしは枕もとに置いて使うことも多いので、フェイスIDだと反応に不満を感じる気がするのも気が進まなかった理由の一つ

 

気持ちの中では新型のiPad Airに固まりつつあったが、そんな中でiPad Airと第2世代のiPad Proをスペックで比較してる方がいた。

 

CPUのスペックはiPad Airが高いがグラフィックのスペックは第2世代Proの方が高いということを指摘していた。

 

この指摘に対し、CPUのスペックが全てを支配するからiPad Airの方がグラフィック面も上回っているという反論も見られた。

 

この点をどう捉えるかで評価が決まるだろう。

 

一つの基準として、iPad Air(256GB)のネット通販の最安値が7万円前後で推移していたので自然と予算を7万円に設定する気持ちが強くなっていった。

 

そんな時に、ふと覗いた店に中古のiPad Pro(256GB)のセルラーモデルが56,000円(税抜き)で売っているのを見て、これでいいやという気になってしまった。

 

買って良かった点は、

 

  • 本体及びアプリの全ての反応が随分速くなったが、ネット関連だけは通信環境に依存するので良くはなったがそれなりに留まる。
  • 画面はさすがにProだけあってキレイ、これはiPad Airよりも上。
  • 別に期待はしてなかったがスピーカーはとても良く十分以上に満足。
  • 少し期待していたカメラは性能は良さそうだが使い易くはなさそう。

 

iPad Air2はバッテリーにヘタリを感じていたがそれでも1日はギリギリ保っていたが、iPad Pro(第2世代)は予想してた以上に保っていて満足できる。

 

買って、良くなかった点が一つだけある。

 

iPad Air2のヘタリのせいで反応が悪いと感じていた現象が2、3あって、ブログを書く際に少し不満に感じていたことがあったのだが、その症状は残っていたので、きっとiPadOSとアプリの相性に起因してるのだろうなと少しガッカリしたことだけが良くなかった点なので、ほぼ満足と言えそうだ、今のところ。

 

保証の点では心配を上げればキリがないが......。

 

 

手持ちのiPadがヘタっていて買い替えを検討してる方は候補に第2世代のiPad Proを加えると、思わぬ掘り出し物になる可能性を秘めてるように感じられる。

 

所与性とテリトリー意識!

わたしのブログの中で一番読まれているのが『所与性』について書いたものでコレ。

 

www.chigau-mikata.club

 

 

作家で演出家の鴻上尚史さんの人生相談に触発されて書いたものだが、このブログに辿りつく方のほとんどが『所与性』や『所与』をキーワードにして検索の結果だ。

 

鴻上さんは、

 

所与性とは続いていることを変化させない、今あることを受け容れるという世間の原則。

 

と説いてます。

 

 

久しぶりに、『所与性』というキーワードでTwitterを検索してみると、鴻上尚史さんの次のTwitterが目に付いた。

 

 

 

このツイートの流れには賛同するとともに、後ろめたさを感じるもう一人の自分自身もいることに気付く。

 

例えば、考え事をしようと喫茶店に入った場合、周りがざわざわして話し声が聞こえる事はちっとも考え事の障害にはならない、もし障害になるとすれば自分の考え事よりも周りの人達の話の方が興味深くて聴き耳を立ててしまうような場合で、これは根本的に自分自身の集中力が不足してるのが原因だ。

 

このような場合は、自分の集中力の無さを嘆くことはあっても、周りのざわついてる人達に腹を立てることはない。

 

しかし、上記のツイートのように本来静かにするべきだと思っている場所で会話をする人がいたり、携帯電話を使う人がいると、腹が立つ自分自身を感じ、それが集中力の不足に起因してることが分かっていても我慢し難いものに思うことが少なくないのだ。

 

だから、少し後ろめたさが付き纏う。

 

 

このような時に、昔は許容できていたことが今は許容できなくなっていると思ったりするが、そもそも昔のことをきちんと覚えていないので比較のしようがない。

 

 

 

時間をかけて核家族化が進み、さらに子供に個室が与えられるようになり、一人暮らしも増え、現代では自分だけの空間を持つことは珍しいものではなくなった。

 

わたし自身を振り返ると、自分のテリトリーだと思っている場所や空間や進路を邪魔されると腹が立つような気がするが、そもそも自分だけの空間ではないオープンスペースでも腹が立つことがあるのはなぜだろうかと考えてみた。

 

こんな話がある。

 

「あおり運転したことある?」東名・中井PAで聞きました・・・全員が「ある!」  2017/10/20

   「モーニングショー」が東名高速道路・中井パーキングエリアで15人のドライバーに聞くと、全員が「あおりをしたことがある」と答えた。「ストレスがたまっていた」「高級車に乗って気が大きくなった」「ゲーム感覚で勝者になりたかった」「急いでいた」「癖になっていた」などと話す。

 

サンプル数が少ないとはいえ、当てはまる人は多いだろうと想像できる。

 

されると嫌なことを知らず知らずのうちにしてしまう、そんな時代になっているのかもしれない。

 

 

所与性は、古い価値観に囚われた人が貫く姿勢だと感じられるが、古い価値観とはテリトリー意識のような気がする。

 

価値観の多様化は、テリトリー意識にもズレを生じさせているとすると、あちらこちらでテリトリー侵害が起きていてもおかしくない。

 

自分のテリトリーを侵されたと感じた人は、その怒りを表現し、仕返しをしようとするかもしれない。

 

しかし、テリトリー侵害をしてると思われてる人は、他人のテリトリーを侵そうとする意思も持ってないし、自分の行動が誰かのテリトリーを侵害してるなどとは全く思っていないのだ。

 

こういうズレが世間の至るところで起きている。

 

音が原因で不快感を感じる人をミソフォニアと呼ぶが、不快な音を出す人を表現することばはない。

 

多様化するハラスメントも無意識で無自覚なテリトリー侵害だと思えなくもない。

 

 

誰しも自分に嫌な部分があることを自覚してるだろう。

 

しかし、その大元が何なのかはなかなか分かりにくいのではないだろうか?

 

 

そんな時は、自分のテリトリー意識に思いを馳せてみるのも良いかもしれない。

 

しかし、深層心理の奥の奥に潜んでるので簡単には自分のことなのに辿りつくのは容易ではないかもしれないので、習慣化すると良いだろう。

 

 

上手く活用しないと勿体ないYouTube!

最近はテレビも新聞も見ないし読まないという人が増えているが、テレビも新聞も見ないし読まない人が発する情報の中にはテレビネタや新聞ネタはたくさんある。

 

テレビや新聞が大元だと気付いてないのかもしれないが、情報として旧型のメディアは依然として影響力は強いのだ。

 

テレビは見ないけどYoutubeを見るという人たちの嗜好を分析したサイトがあって、そこにはYouTuberがどういうジャンルの動画を手掛けているかという分析も行われていた。

 

以下用いるデータや資料は次のサイトからの引用。

 

どんなジャンルがシェア率高いの!?TOP YouTuberの再生数の多いジャンルを調べてみた! 2019年1月8日

 

このサイトでは、YouTubeを以下の12のジャンルに分けて分析していた。

 

  • チャレンジ系
  • キッズチャンネル
  • Vlog(『Video』+『Blog』)
  • ゲーム実況
  • 企業
  • 料理・グルメ
  • 音楽系
  • レビュー系
  • 美容
  • Vtuber(V=VirtualでCGやイラストのキャラクターが主人公)
  • スポーツ
  • 教育

 

 

わたしは最近は減ったが以前は古いドラマなどを好んで見ていたが、それはどのジャンルに入るのだろうかと思ったが、もしかしたら著作権に抵触するので存在してはいけないジャンルになるのだろうか?

 

上記ジャンルでわたしが見るのは

 

  • Vlog
  • レビュー系
  • 音楽系

 

で、その都度検索して見たいものを探している。

 

有名なよく名前を聞くトップYouTuberの動画は見たことがない。

 

 

上記ジャンルの中でトップ100のチャンネル数の順位は、

 

  1. チャレンジ系(26%)
  2. キッズ系  (13%)
  3. Vlog     (13%)
  4. ゲーム実況(11%)
  5. 企業.           (10%)
  6. 料理・グルメ(9%)
  7. 音楽系.        (7%)
  8. レビュー系(5%)
  9. 美容系.        (2%)
  10. Vtuber.       (2%)
  11. スポーツ.     (1%)
  12. 教育.           (1%)

 

 

トップ100のジャンル別の平均再生回数の順位は、

 

  1. 音楽系(ダントツ)
  2. チャレンジ系
  3. Vlog
  4. ゲーム実況
  5. レビュー系
  6. 料理・グルメ
  7. キッズ系
  8. 美容系
  9. 企業
  10. スポーツ
  11. 教育
  12. VTuber

 

となっていた。

 

総再生回数ではチャンネル数が多いこともありチャレンジ系がダントツの再生回数を示していた。

 

 

これらのデータを見てわたしが思ったことは、チャレンジ系というジャンルは少し前まで伝統的にテレビのバラエティ番組が得意としていたジャンルであり、悪ノリが過ぎると物議を醸していたものをお手本にして踏襲してるのだろうと想像する。(見たことないし見ようと思わないので)

 

日本社会にコンプライアンスという概念が持ち込まれた時期が2000年頃からと言われてるが、この頃から投資家目線で規制がかかることが増えてきた。

 

投資家と言っても日本人ではなく外国人だ。

 

つまり、外圧として導入され始めたコンプライアンスだが、虐げられていた弱者の声が通りやすくなるという良い面も持ち合わせてはいる。

 

このコンプライアンスがテレビ番組に周知徹底されるようになると、悪ノリ系のバラエティは弱体化し、その隙間をチャレンジ系のYouTuberが埋めるようになり始めたのだろうと想像する。

 

時々ニュースネタでお騒がせYouTuberが話題になることがあるが、あれはきっとチャレンジ系がやらかしているのだろう。

 

 

最近こんな記事が出ていた。

 

アマゾンで偽レビュー作りまくる不届者の正体 投稿者「軽く月10万円ぐらいは稼げますよ」

多くのアマゾンの利用者は、アマゾンで購入するときレビューを参照するが、はたして、そのレビューと購買パターンには、どのような関係があるのか。アメリカでは、アマゾンのレビューと購買パターンに関する大学の研究結果がある。

 

 

欲しくて欲しくてしょうがないもので、且つ絶対に失敗したくない場合レビューを参考にすることは必須だ。

 

しかし、文字だけのレビューはもう信用しない方が良いのかもしれない。

 

その点でレビュー系のYouTubeや、ターゲットとなる商品を使用してのVlog系のYouTubeは、使用してる自分の姿を想像させるのに十分だし、必要な機能が十分かや使いこなすのに障害が少ないかなどが判断しやすいし、もし悪意のレビューを行おうとしてもかなりの困難を伴うはずだと想像できる。

 

わたしには縁が無いが美容系も典型的だろう。

 

 

わたしの想像だが悪意のレビューは今後は、『買ったら壊れていて、その上サポートが最低だった』に集中するような気がする。

 

これに引っかからないためにはYouTubeは非常に役立つと思っている。

 

上手く活用できると得をするのがYouTube!

 

結果にコミットしないことに付加価値を感じていませんか?

1850年頃のカリフォルニアで起きていたのがゴールドラッシュ。

 

1848年に金が発見されたと報じられたことで、アメリカ国内だけでなく海外からも金の採掘を目指す人が大量にカリフォルニアに入った、その数30万人と言われている。

 

現在の基準からすると30万人というのは大した数字ではないような気がするが、金が採掘できると話題になる前のサンフランシスコは人口200人程度の開拓地だったらしいのだ。

 

Wikipediaによると、1846年に人口200人だったサンフランシスコは1848年には1000人になり1850年には常住人口で2万5000人になり1852年には人口3万6000人の都市になっていたとある。

 

現代を基準にするとスケールが小さく感じられる話だが、人口の急増は発展するだけではなく歪みも拡大することにつながる。

 

私たちが映画やドラマのサクセスストーリーで耳にするアメリカンドリームは、金を採掘して大成功しようというカリフォルニアドリームが由来らしい。

 

少し前置きが長くなったが、一攫千金を夢見て多数が訪れた金の採掘現場の周辺では、採掘に従事する人よりも、採掘者を相手にしたビジネスの方が実は儲かっていたという話がある。

 

これが有名なツルハシ理論で、

 

 

 

 

現代はとにかく結果が出ることが大事で、結果を出すために何をやるかはあまり問われない。

 

この“あまり問われない”を拡大解釈すると犯罪に片脚を突っ込むことになるが、その傾向は当分続くことになるだろうと思える。

 

そんな、とにかく結果が求められる現代では、『こうすれば結果が出ます』という秘策を求めてる人が非常に多い。

 

結果を求める人が砂金の採掘をする人ならば、秘策を扱う人はツルハシを売っていた人に近いかもしれない。

 

ダイエットに関して結果を請け負うことで評判になったライザップは、何が魅力だったかというと『結果にコミット』と謳ったことだ。

 

意味としては『結果に責任を持ちます』になるだろうか?

 

決して『結果を保証します』ではないが、それに近づける意思が感じられる。

 

世の中には、結果が出ることを期待させるが、決して結果にコミットしないツルハシビジネスがたくさん増えている。

 

コンサルタント、コーチング、アドバイザー、サポート、カウンセラー、コンシェルジュ、などなど呼び名は様々で本来の意味とは違って使われてるものもあるが、悪意のある言い方を敢えてするならば、迷える仔羊をカモにするビジネスだ。

 

結果にコミットすることがビジネスなのではなく、結果の手前のプロセスに関わることがそれらのビジネスなのだ。

 

砂金を採掘したい人にツルハシを売るだけならば必要な道具になるが、それに何が付随してるかが評価の分かれ目になるだろう。

 

砂金の採掘の何が大勢の人を惹きつけたかというと、金の希少性だ。

 

希少なものに人が群がったこと自体は、非常にシンプルな行動原理に基づいているが、現代人が群がろうとしてるものはシンプルな理屈の上に鎮座する付加価値であるように見える。

 

付加価値というよく見えないものを求めて彷徨っているのだ。

 

あなたにとっての付加価値はこれではないですか?と、金の斧を差し出すのがコンサルやコーチング等の役割だ。

 

 

付加価値は資産価値に置き換えて評価されるが、大元はコミュニケーションから生まれることが多い。

 

コミュニケーションには人間心理が絡み、人間心理が絡むということは心理学的に体系付けられるので、今も昔もほとんど同じでコンテンツ的にはほぼ出尽くしている。

 

ライザップがダイエットに関して結果にコミットできたのは、糖質制限の辛さに付き纏う怠け癖をコミュニケーションで防いでいたからだ。

 

 

私たちは、結果にコミットしないしないものに付加価値を感じる迷える仔羊で、歴史的には同じことを繰り返している。

 

木下優樹菜の騒動で思い出した、人間にはサル派とゴリラ派がいる!

木下優樹菜が騒動になっている。

 

以下しばらく木下優樹菜を題材にして話をするが、木下優樹菜論を展開したいわけではない。

 

 

詳細な内容は検索すれば多数出るし、ワイドショーや芸能欄の旬のネタなので内容には触れない。

 

Wikipediaによると2006年に現在の事務所にスカウトされて以降すぐにテレビでの露出も増えヤンキー出身のおバカタレントというジャンルで人気が出ていた。

 

GoogleTrendsで見てみると、今回の騒動が最大の反応を見せていることが分かるが、今回を除くと2012年の8月に転機が訪れていたように感じられる。

 

2012年の8月に出産しママタレントという地位を得ていたのだ。

 

検索可能な2004年以降で見ると、

 

GoogleTrends『木下優樹菜』2004年以降

 

関連するトピックやワードを見るとブログやInstagramが上位にあり、そのフォロワー数の多さでも有名だ。

 

 

今回の騒動が起きる前の2019年の6月にこんな話題があった。

 

優樹菜SNSフォロワー数が激変

この話題にネットでは

 

「そんな事言って、本当はフォロワー買ってるんじゃないの?」

 

「減ったのかと思ったら増えてんのか」

 

「事務所がフォロワー買ってるんだろ」

 

「NAOTOと絡むようになったからじゃない?」

 

「フォロワー買ってて急に増えてるって指摘されないように自らなぜ?って触れていくスタイルなんでしょ」

 

「イイねの数とフォロワー数が噛み合ってないのが答えだよ」

 

「まわりに木下優樹菜のファンひとりもいない…。ほんとに不思議。どうなってんの?何がこの人の魅力なの?」

 

「あー、だからローラのフォロワー数も激増してたんだ。日本第2位の座をユッキーナに奪われないように必死で買い足してるんだね」

 

という声も。

 

 

その少し前の5月に、わたしも見たがNHKが次のような特集をやっていた。

 

潜入取材!フォロワー3万人買ってみた

では水増ししたフォロワーはどこからやってくるのか。売買しているのはどんな業者で、どのようなからくりになっているのか。取材で購入した3万人のフォロワーを徹底追跡すると、その一端が見えてきた。

(「ネット広告の闇」取材班記者 田辺幹夫・田隈佑紀・藤目琴実、ディレクター 中松謙介)

 

 

フォロワー数が多いことで知られている木下優樹菜だが、木下優樹菜に限らずフォロワーというのは基本は好きで応援してるからフォローしてると思われているが、どうもそうではなさそうな雰囲気も漂う。

 

フォロワーが多いということと炎上に共通点があるような気がしてくる。

 

木下優樹菜の騒動を伝えるSNSやニュースに寄せられるコメントやリプの数々を見ると、応援したり庇うものはほとんど無いのだ。

 

もちろんこのような場合に大騒ぎするのは実は少数に過ぎないノイジーマイノリティがあの手この手で騒ぐだけというケースもあるが、今回の騒動を見てると木下優樹菜を応援していたり心からのファンだという人の姿が本当に見えてこない気がする。

 

 

そして思い出したのが今やお茶の間の番組に欠かせない人になった予備校講師の林修先生だ。

 

「いつやるの?」

 

「今でしょう!」

 

というCMが始まったばかりの頃の林先生は、同時検索ワードが「ムカつく」で有名だった。

 

 

人間の深層心理は不思議なもので、嫌いな人のことが気になってしょうがなくなるのだ。

 

嫌いな人との人間関係で悩む人は多いが、その悩みへの回答で「嫌いな人のことは気にしないで無視すれば良い」などというものがあるが、それができるくらいならそもそも悩まないはずだ。

 

人間は嫌いな人が気になってしょうがない生き物なのだ。

 

恋愛に関しては「嫌よ嫌よも好きのうち」などというくらいややこしい存在なのだ。

 

ビジネスでもそうだ。

 

敵やライバルの行動は気になって気になってしょうがない。

 

だから、何をやっているか、何を考えているかを知りたくなる。

 

そして、そんな行動や考えを自分(自社)が上回っていると少し安心できたりする。

 

いわゆるマウンティングの一種だろう。

 

思い出す本がある、ゴリラ研究の第一人者の現京大総長が書いた本。

 

 

 

マウンティングが行われる背景には、価値観としての『上下関係』『優劣関係』『勝ち負け』が重視されるからでこれはサルの特徴だ。

 

サルと似て非なる存在にゴリラがいる。

 

ゴリラは集団内に『上下関係』『優劣関係』『勝ち負け』という価値観を持っていないと言われる。

 

 

木下優樹菜の騒動を見ていて思い出したのが、人間にはサル派とゴリラ派がいるということだった。

 

あなたはどちら?

 

『コンテンツと器』や『中身と外見』、大事なのはどっち?

『器が大きい人物』という言い方をする場合の器とは、体のことではなく中身のことを意味してるということにはほぼ誤解がないだろう。

 

この場合の中身とは、器量や度量であり考え方や振る舞い方になるだろうが、行動や発言などアウトプットされたものやことを通して判断される。

 

大事なことは中身であって外見ではないと受け取ることが多い。

 

不思議なことに外見ではなく中身を意味してるにも関わらず、外見がキーワードになっている。

 

 

外見が素晴らしい人は中身も素晴らしいと表現されると、きっと白けた気持ちになる人は多いはずだ。

 

人間の外見と中身に関してはテーマにするとややこしくなりそうなので料理をテーマにすると、陶芸家で美食家の北大路魯山人にはこういう逸話がある。

 

美食家として名を馳せた魯山人は、フランス料理の外見偏重傾向に対しても厳しく、渡仏の際に訪れた鴨料理店「トゥール・ダルジャン」で、「ソースが合わない」と味そのものを評価し、自ら持参したわさび醤油で食べたこともあった。また、使ったわさびは粉ワサビだった。

 

この逸話から察すると外見偏重ではないことが分かるが、魯山人が残したことばとして『器は料理の着物である』と言うのは有名だ。

 

腹が減るから料理を食べるという場合、コンテンツは料理になる。

 

わたしなどは料理が美味しければ盛り付けなど気にしないのが正直なところだが、どんな皿や器にどのように盛り付けるかで味が変わるという人も世間には大勢いる。

 

飲み物に至っては、コップやグラスなど器がなければそもそも飲むことすらできない。

 

飲み物の形は器の形だと気付くと、コンテンツと器の関係に思いを馳せてみたくなる。

 

 

文字で表現されたものは手書きだろうと印字されていても中身には違いはない、だから同じだと思い込んでしまう。

 

松本清張など大御所の作品は現代でも版を新たにし出されてるが初版は昭和30年代というのが多い、その間ずっと出版され続けていた本は内容は同じでも印刷のフォントや1ページの文字数がずいぶん変化し、読んだ場合の印象に違いが出る場合が多いし、その印象の違いが中身の理解に影響を及ぼしていることが感じられたりする。

 

今風の編集で古い内容の本を読むとリアリティに欠けて内容に没入できないことがあったりするが、古い本特有の小さな字でぎっしり詰め込まれてると読む気にすらならなくなる。

 

 

つまり、コンテンツが重要だと思っていても器の影響を無意識の内に強く受けていることが多いのだ。

 

同じ内容を本で読むかデジタルデバイスで読むかでも違いがあるし、デジタルデバイスの種類でも内容の受け取り方に差が出てるはずだ。

 

大きな画面で見るか小さな画面で見るか、見たり読んだりする内容は同じでも受け取り方の差が大きく違ってるとすれば、せめて違いがあるということには気付いていた方が良いだろう。

 

同じ原作本を元に、何度も映画化やドラマ化を繰り返される作品がある。

 

その都度脚本にもアレンジが加えられるだろうが、それ以上に演じる俳優が変わったり、撮影の背景の街の様子が変わったり、随所に変化が生じるが、見えないところでは撮影機材や手法にも違いが生じ、これらは全部まとめて器の変化と言えるだろう。

 

 

このように考えていくと、中身やコンテンツとそれを受け止める器は一体化したものだと捉えた方が相応しいのだろう。

 

過渡期には中身やコンテンツ重視だったり、外見や器重視だったりというアプローチの違いがあるかもしれないが。

 

一体化しながら変化するのが中身と器の関係だ。

 

中身やコンテンツと外見や器を対立させて考えすぎると道を誤るとまでは言えなくても大きな損をすることになるのかもしれない。

内なる声と向き合え!

こんなブログがあった。

 

anond.hatelabo.jp

 

確かにオバケって現代社会では恐れる対象としては影が薄くなったような気がするが、それは夜でも明るい環境が当たり前だからのような気がする。

 

灯のない夜道を一人で歩いているときっと急にオバケの存在が感じられるかもしれない。

 

 

そこで、オバケや幽霊というワードはどの位需要があるのかをGoogleTrendsで調べてみた。

 

調べてみると、『オバケ』で検索するよりも実際には『お化け』と検索される方が圧倒的に多かったので以下は『お化け』で統一する。

 

GoogleTrends『お化け』『幽霊』

 

お化けや幽霊と言えば稲川淳二がお約束だが、稲川淳二を加えて比較すると、

 

GoogleTrends『お化け』『幽霊』『稲川淳二』

 

稲川淳二抜きでも夏の風物詩としてお化けや幽霊は根強い需要が感じられるが、関連するワードだけで比較すると分かりづらい部分もあるので、怖いこととして『交通事故』を比較対象として比較すると、

 

GoogleTrends『お化け』『幽霊』『稲川淳二』『交通事故』

 

 

 

交通事故と比較してもそれなりの需要がお化けや幽霊というワードにはあることが分かる。

 

ちなみに交通事故が大きく反応したのは2006年12月だが、調べてみてもどの事件に対する反応なのかは不明だったが飲酒運転が多かったように感じられた。

 

 

ちなみにわたしは、お化けや幽霊は自分の外側にいるのではなく、内側にいると思っている。

 

お化けや幽霊を恐れている時は、自分が取ってる行動に自信が持てなかったり、本当はやりたくない事をやってる時に現れると感じている。

 

 

悩ましいことに自分の内なる声に耳を傾けると、聞こえてくる声にはお化けや幽霊が発する悪魔のささやきと、自分を福に導く神のお告げが混在することだ。

 

見分けるためには常に内なる声と向かい合う必要がある。