『器が大きい人物』という言い方をする場合の器とは、体のことではなく中身のことを意味してるということにはほぼ誤解がないだろう。
この場合の中身とは、器量や度量であり考え方や振る舞い方になるだろうが、行動や発言などアウトプットされたものやことを通して判断される。
大事なことは中身であって外見ではないと受け取ることが多い。
不思議なことに外見ではなく中身を意味してるにも関わらず、外見がキーワードになっている。
外見が素晴らしい人は中身も素晴らしいと表現されると、きっと白けた気持ちになる人は多いはずだ。
人間の外見と中身に関してはテーマにするとややこしくなりそうなので料理をテーマにすると、陶芸家で美食家の北大路魯山人にはこういう逸話がある。
美食家として名を馳せた魯山人は、フランス料理の外見偏重傾向に対しても厳しく、渡仏の際に訪れた鴨料理店「トゥール・ダルジャン」で、「ソースが合わない」と味そのものを評価し、自ら持参したわさび醤油で食べたこともあった。また、使ったわさびは粉ワサビだった。
この逸話から察すると外見偏重ではないことが分かるが、魯山人が残したことばとして『器は料理の着物である』と言うのは有名だ。
腹が減るから料理を食べるという場合、コンテンツは料理になる。
わたしなどは料理が美味しければ盛り付けなど気にしないのが正直なところだが、どんな皿や器にどのように盛り付けるかで味が変わるという人も世間には大勢いる。
飲み物に至っては、コップやグラスなど器がなければそもそも飲むことすらできない。
飲み物の形は器の形だと気付くと、コンテンツと器の関係に思いを馳せてみたくなる。
文字で表現されたものは手書きだろうと印字されていても中身には違いはない、だから同じだと思い込んでしまう。
松本清張など大御所の作品は現代でも版を新たにし出されてるが初版は昭和30年代というのが多い、その間ずっと出版され続けていた本は内容は同じでも印刷のフォントや1ページの文字数がずいぶん変化し、読んだ場合の印象に違いが出る場合が多いし、その印象の違いが中身の理解に影響を及ぼしていることが感じられたりする。
今風の編集で古い内容の本を読むとリアリティに欠けて内容に没入できないことがあったりするが、古い本特有の小さな字でぎっしり詰め込まれてると読む気にすらならなくなる。
つまり、コンテンツが重要だと思っていても器の影響を無意識の内に強く受けていることが多いのだ。
同じ内容を本で読むかデジタルデバイスで読むかでも違いがあるし、デジタルデバイスの種類でも内容の受け取り方に差が出てるはずだ。
大きな画面で見るか小さな画面で見るか、見たり読んだりする内容は同じでも受け取り方の差が大きく違ってるとすれば、せめて違いがあるということには気付いていた方が良いだろう。
同じ原作本を元に、何度も映画化やドラマ化を繰り返される作品がある。
その都度脚本にもアレンジが加えられるだろうが、それ以上に演じる俳優が変わったり、撮影の背景の街の様子が変わったり、随所に変化が生じるが、見えないところでは撮影機材や手法にも違いが生じ、これらは全部まとめて器の変化と言えるだろう。
このように考えていくと、中身やコンテンツとそれを受け止める器は一体化したものだと捉えた方が相応しいのだろう。
過渡期には中身やコンテンツ重視だったり、外見や器重視だったりというアプローチの違いがあるかもしれないが。
一体化しながら変化するのが中身と器の関係だ。
中身やコンテンツと外見や器を対立させて考えすぎると道を誤るとまでは言えなくても大きな損をすることになるのかもしれない。