違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

ストレスを解消したければ〇〇が1番!

解決しようとする時に、解消とか発散と表現されることが多いのがストレス。

 

ストレスやプレッシャーは、前向きなモチベーションを盛り上げるためにも役に立つが、一般には弊害として捉えられる。

 

ストレスやプレッシャーが悪い意味で影響を及ぼしてる時に世間の人はどのように対処してるのだろうか、また年齢や性別その他で違いはあるのだろうか。

 

 

平成22年国民生活基礎調査の概況>悩みやストレスの状況 :厚生労働省

主な悩みやストレスの原因を、性、年齢階級別にみると、

 

「自分の学業・受験・進学」は、

男女とも「12~19歳」が最も高く、

 

「自分の仕事」は、

30代から50代で男女差が大きく、「収入・家計・借金等」は男「50~59歳」、女「40~49歳」が最も高くなっている。

 

「育児」、「子どもの教育」は、

特に30代、40代で男女差が大きく、「育児」は女「30~39歳」、「子どもの教育」は女「40~49歳」が最も高くなっている。

 

「自分の病気や介護」は、

男女とも年齢階級が上がるほど高くなっており、「家族の病気や介護」は男は年齢階級が上がるほど高くなっているが、女は「50~59歳」が最も高くなっている。

 

「家族との人間関係」は、

男はほぼ横ばいだが、女は40代、50代で高めの傾向があり、「家族以外の人間関係」は、男より女が高く、年齢階級が上がるほど低くなっている。

 

 

 

これらの悩みがストレスやプレッシャーの原因ならば、解決することは解消や発散では実現できないようにも感じられる。

 

 

ところで、ストレス解消ストレス発散というのは違いがあるのだろうかとGoogleTrendsで比較可能な2004年以降で見てみると、

 

GoogleTrends『ストレス解消』『ストレス発散』2004年以降

 

 

最近ではほぼ同じであることが伺える。

 

 

ではストレス解消の関連するキーワードを見ると『ゲーム』、『グッズ』、『音楽』、『猫』、などと出てくる。

 

一方、ストレス発散の関連するキーワードを見ると、『ゲーム』、『アプリ』、『カラオケ』、『泣く』、などと出てくる。

 

 

関連するキーワードを見ると、好きだからやってると思われることの中には、嫌なことから逃れるための時間潰しとして使われてるものが多いように感じられる。

 

この結果と全く同じようなことが書いてある記事があった。

 

男子大学生に限定しているが、実際には幅広く多くの人に当てはまるのかもしれない。

 

男子大学生に聞きました!オトナが知らない「ストレス解消法」って?

「自分を楽しませることがいちばんのストレス解消だと思います!」という、現実的で堅実な20代の知恵。私たちも取り入れたいものですね。

 

 

人間は時には、解決することができない問題で悩むことがある。

 

『もっと背が高かったら人生が変わったはずなのに』のようなことは根本的な解決はできないので解消したり発散させることは有効だ。

 

しかし、結果を出せと求められたら、これはできる人には出来ることなので解消や発散に馴染まない悩みとなる。

 

 

やろうと思えば不可能ではないことで感じるストレスやプレッシャーは、モチベーションをアップさせるような場合を除くと、人間の心だけでなく体も強張らせ、萎縮させる。

 

このような時、人は癒しを求める。

 

ストレス解消の関連するキーワードに猫が出るのもその現れだろう。

 

癒しを求める気持ちは、時には人を誤った方向に導く。

 

LSDなどの幻覚剤は、脳を「高次の意識状態」にする:英研究結果

幻覚剤が引き起こす神秘体験は、時に“癒やし”をもたらすことが知られている。そのため厳重に管理された摂取量ならば、重度のうつ病患者などの医学的治療薬として役立てられる可能性があると、研究者らは期待している。

 

薬物事件が増えていることと、ストレスの増加はリンクしてるはず。

 

しかし、薬物に依存すると倍返しに遭う。

 

 

ではどうすれば良いか?

 

癒しを求めるほどストレスやプレッシャーを受けてる人の身体は、強張り萎縮してるので、これをほぐしてあげれば良い。

 

簡単なことなのにやってない人が意外と多いのが暖かい(温度はお好みで)お風呂に入ること。

 

ストレスに弱い人にはシャワーだけという人が多いような気がする。

 

お風呂で入浴剤が楽しめるようになれば悩みの半分以上はすぐに無くなる!

予定調和 vs ミスマッチ!

先にテーマを決めて、そのテーマに合わせて準備し、準備できると本番に取りかかる。

 

一通りの作業が完了すると、テーマに沿ってどれだけの完成度だったかを確認し、確認することは反省会も兼ねるので、そこで出てくる反省点は次回の課題となる。

 

そんな課題を踏まえて次のテーマが決まる。

 

結果を求められる現代では、結果を先にイメージすることが重要になるので上記のようなプロセスを経ることが当たり前になる。

 

テーマ通りに完了することがベストとされることは、実は予定調和そのものでもある。

 

一般的には、予定調和は退屈でつまらないと解されてるが、多くの人は自分が日々予定調和を目指しているとは気付いていない。

 

 

テレビ番組が面白くないと言われる理由はここにあるだろう。

 

番組を制作する人々は、実にさまざまな制約を受けながら番組を企画しなければいけない。

 

それは電波の公共性やテレビ局としてのコンプライアンスとしての制約であり、さらにそれ以上に民間放送であればスポンサーへの、NHKならば政府与党への配慮や忖度が、企画の段階から求められている。

 

 

それに対してYouTubeのように自由投稿型のチャンネルでは、テーマは設けても結果はどうなるか分からないという作りになる。

 

レビュー系のものだったら、テレビでは良い点しか伝えないだろうし、大して良くもないのに良さそうに伝えたりするが、YouTubeだと欠点もハッキリ伝えることができるし、他の類似品との比較も露骨に行える。

 

出来上がって投稿される作品には度が過ぎる悪ノリも多いのかもしれないし、予定調和やパクリも多いだろうが、それなりの人気と需要がある作品は予定調和を目指してはいない。

 

テレビがほぼ全て結果が予定調和(例外はスポーツなどの中継)なのに対し、YouTubeは玉石混交だから発掘する楽しみがある。

 

予定調和型でなければ、どういう結果になるのかを知りたい楽しみたいと思えるものが多い。

 

テレビ番組と違い、配慮や忖度が発生するとしても、具体的な誰かへの配慮や忖度ではなく、漠然とした視聴者や世間への配慮や忖度であり、これは一般的な常識に基づくマナーや礼儀作法に留まり、利害への配慮や忖度ではない場合がほとんどだ。

 

 

テレビ番組とYouTubeを比較すると、完成度という点では圧倒的にテレビ番組が上だが、その完成度が予定調和と一体化してることが感じられる時につまらなさが出てくる。

 

プロの役者による演劇は、虚構の世界を虚構と知りつつ高度な予定調和を楽しむもの。

 

対して、子供の学芸会は同様に虚構の世界かもしれないが、虚構を越えた現実や真実が感じられる、その理由は予定調和のレベルが低いからだ。

 

役のキャラクターではなく、演じる子供のキャラクターが出ることは、完成度を求める目線では不合格だろうが、臨場感や感情移入を重視するなら合格点が付く。

 

 

子供は思い通りにならないから楽しめるのがはじめてのおつかいなのだが、最近はそこにも疑問の目が向けられている。

 

 

 

 

予定調和が恐れるのはミスマッチだ。

 

 

全てが予定調和に収束する傾向がある中で、意表を突こうと思うならば恐れてはいけないのがミスマッチ。

 

 

私たちが持ってる常識は、予定調和に汚染されている。

 

無意識のうちに予定調和に迎合しようとするだろう。

 

 

そんな時は、ミスマッチを意識すると良いだろう!

 

 

 

犬派or猫派?

『ネコ家具』というのをテレビCMで見るようになったのはいつ頃からだろうかと調べると、2017年に家具の生産地である福岡県の大川市でシャレで作ったネコ家具でネコが寛ぐ姿をネットにアップしたところ海外で話題になり、それがキッカケで商品としてラインナップされたのが2018年と分かった。

 

こうしてネコ家具できました 大川市

大川家具は職人がつくる良質な家具です。

その技術とセンスを証明するために

「ネコ家具」をつくってみました。

気まぐれで、自由奔放。

だけど「心地よい場所」に対してはすごく貪欲なネコ。

そんなわがままなネコも満足させちゃう家具。

それが「ネコ家具」なのです。

ネコ用だからって手は抜きません。

厳選した木材を使用し、

卓越した職人技で、

ひとつひとつ丁寧に仕上げました。

使い心地は…ご覧の通り。

大川家具は、誰の要求にも、どんな要求にも、応えます。

 

 

 

記事はすでに削除されてるが、このような見出しで全国的な話題にされたこともある。

 

 

 

イヌ家具は聞いたことないところを見ると、ペットとしてのネコ派の優勢は揺るぎないのかなと思えてくる。

 

 

2年前の今頃こんなニュースがあった。

 

ペット数、猫が犬を初めて逆転 飼い主の数は犬が多数 朝日新聞.com

全国の犬と猫の推計飼育数を発表した。猫が953万匹(前年比2・3%増)に対し、犬は892万匹(同4・7%減)。1994年の調査開始以来、初めて猫が犬を上回った。

 

一方、飼育世帯数の推計値は猫が546万世帯、犬は722万世帯。飼い主の数で見れば、猫より犬の方が多い。犬は1匹のみ、猫は複数匹を飼うケースが多いためだ。

 

 

飼育頭数はネコの方が多いが、飼い主の数は犬の方が多いのだ。

 

 

念のためにGoogleTrendsで検索可能な2004年以降で『犬』『猫』を比較すると、

 

GoogleTrends 「犬」「猫」2004年以降

 

 

他に数パターン比較したのだがカタカナの『イヌ』も『ネコ』も検索数は少なかったし、『犬派』『猫派』の比較はほとんど差が付いてなかった。

 

唯一『犬』と『猫』で差が付いた推移が見られた。

 

検索数で見ると、2013年の春から猫が犬を上回り、そのピークは2015年の末から2016年の前半にかけてで、最近ではほぼ同じになっていることが分かる。

 

 

以下は、犬も猫も飼ったことはないが、一緒に生活した経験はある私の思い出話。

 

その頃わたしは風来坊のような生活をし、友人が一人でやっている工場に転がり込んでいた。

 

一人でやるには大き過ぎるくらいの工場で6畳の和室があったので、そこを1日交代で寝室にし片方は事務所で寝るという生活をしていた。

 

工場の大家が隣に住んでいて猫をたくさん飼っていて(数は不明)、時々牛乳を上げたりしてると徐々に懐いてきてやがてわたしを見ると寄ってくるようになった、そしてわたしの横で仰向けになったりするようになり、その様子を見ていた大家さんが「猫があなたを信頼してるからお腹を見せるんですよ」と笑って教えてくれた。

 

こうなると「ああ、俺は猫派だったんだな」と思うようになってきた。

 

子猫が生まれたりすると時々事務所に入り込んできて一緒に布団に入ってくることもあった。

 

こうして猫の可愛さに惹かれるようになるが、俗に言う猫の気まぐれにも振り回されていた。

 

思い通りにならない猫に腹が立つこともあり、そんな時には「可愛さ余って憎さ百倍」を感じる自分に気付いて戸惑ったりもした。

 

 

そんな生活をしていたある日、相棒の両親が旅行に行くことになり飼い犬を預かってくれと言うことになった。

 

雑種の犬だったが、この犬が来てる間は猫が全く寄り付かなくなったのは言うまでもない。

 

一回だけ犬に気付かずに子猫が入り込んできたが、犬に気付くとわたしの頭の上に逃げ、そこでブルブルと震えていた。

 

恐怖を感じてる子猫は、普段ではあり得ないほどわたしの頭の上で爪を立てていたので、頭から軽く出血したがその痛みも可愛く感じられた。

 

わたしの相棒は歩く事が嫌いなので犬の散歩をさせないからわたしが朝夕と散歩に連れて行っていた、そうするとあっという間に犬はわたしに懐いて、夜寝るときも私の側で寝るようになった。

 

夜中にトイレに起きたりすると、後ろから付いて来てトイレの前で終わるのを待っている。

 

こういう姿を見ていると可愛さを感じるのは当然で、猫より犬の方が信頼できるなと感じ、「やっぱり俺は犬派だったんだな」と思うが、たまにそんな忠実な姿が鬱陶しいと感じる瞬間もあり、そんな時は猫の気まぐれがちょうど良いなと思えたりもした。

 

犬との生活は一週間ほどだったし、工場に転がり込んでいたのは1年ほどだったので、犬とも猫とも期間限定のお付き合いだったがこの間の体験で分かったことは、犬も猫もどちらも好きだが気分しだいで犬派になったり猫派になったりするという面がわたしにはあるということだった。

 

頭で考えると、気まぐれな行動を嫌っているはずなのに、自分自身が十分気まぐれな人間だと分かってしまう。

 

そういう意味では犬派になりたい猫派かなと思えてくる。

 

皆さんは犬派ですか、それとも猫派ですか?

 

『面白いことが無いな〜』と思ってる方はヤバい!

『面白い』と感じる時には、脳が反応している。

 

『面白くない』と感じる時には、脳が全く反応しない

 

脳全体では120の番地がある。(らしい)

 

その中で『面白い』と感じる時に反応する番地は次の8つのいずれか。

 

  • 思考系
  • 感情系
  • 伝達系
  • 運動系
  • 聴覚系
  • 視覚系
  • 理解系
  • 記憶系

 

 

大事なことは『面白い』から脳が反応したのではなく、上記の8つの系のどれかが反応したから『面白い』と感じるのだ。

 

『面白い』は、自分の外側にあるのではなく内側(脳内)にあることになる。

 

そんな話が書いてあったのがコレ。

 

 

 

自分が『面白い』と感じられるためには脳を新鮮な状態に保つことが大事であることが分かるが、では相手に『面白い』と感じてもらうためにはどうすれば良いか?

 

上記の本でもさまざまな手法が紹介されてるが、自分らしさも大事になるのでマニュアル的な対処ではなく、自分なりの答えにたどり着くしかないだろう。

 

『面白い』は自分が感じるだけでなく、自分のアウトプットの結果誰かに『面白い』と思ってもらうことに繋がって行く。

 

『面白い』と思ってもらうには、さらに高度さが要求される『説得力』というハードルが出てくる。

 

面白いと思わせただけであれば掴みはOKに過ぎない。

 

説得力を生み出すのは、普通に考えれば話やアウトプットの内容であり、分かりやすさだと思える。

 

 

小泉進次郎「無内容発言」が妙に「説得力」を持つのはなぜなのか…? 有権者が「説得力」を感じる条件

小泉進次郎氏の「セクシー」発言を聞いて「よく考えてみたら中身がないのでは」と考えるのは、システマティック処理である。

 

大阪ダブル選挙で維新候補の押しの強い演説を聞いて「こっちに投票しよう」と考えるのは、ヒューリスティック処理である。

 

気持ちや時間にゆとりがあれば、あるいは、そもそも考える気があればシステマティック処理をするのだが、

 

そうでなければそうしない、というのが、これまでの社会心理学研究が示してきた、われわれが説得を受容する際の行動パターンである。

 

さらには、ヒューリスティック処理の際に受けたインパクトが強ければ、たとえシステマティック処理をしたとしても、それをひっくり返すことは容易ではない。

 

 

 

面白さに関しては脳が大きく関係し、説得力に関しては(社会)心理学が関係してるが、この二つは密接に関係していて分けることは難しい。

 

 

同じ人が同じ情報を得ても、その時の体調や忙しさなどが関係する心の余裕の度合いしだいでは、反応は大きく変わり、時には正反対の反応をすることもあるはずだ。

 

正しく判断するためには『面白い』を見抜く必要がある、説得をしたりされたりが上手く機能するためにも正しい判断が必要になる。

 

 

脳が健康でなければ正しい判断や反応ができない。

 

脳を健康に保とうと思ったら身体が健康でなければならない。

 

 

しかし恐ろしいことに、脳が判断する時は自身が健康であることを前提に反応してるので、誤った反応をしてもそのことに気付きにくい。

 

 

最近『面白いことがないな〜』と思ってる人は、脳が不健康かもしれないと疑ったほうが良いだろう。

 

過剰に外注に依存する世間!

ゴールドラッシュにおける砂金採掘者と採掘者相手にツルハシなど採掘に必要なものを扱うというビジネスは、利用する者と利用される者の関係のように言われながらも協力関係にある車の両輪のようでもある。

 

 

現代では砂金にあたるものは、

 

  • 事業を成功させたい
  • 投資を成功させたい
  • 悩みや心配を解決したい

 

などのように、望む結果を得たいということで今も昔も動機のレベルでは同じだろう。

 

 

では現代の、砂金採掘のツルハシ売りに相当する分野はどのようになっているだろうか?

 

 

いつからが現代かをどのように定義するかで若干持ってるイメージに違いが出るだろうが、私の中ではバブル崩壊後の90年代半ば以降だと位置付けている。

 

95年にはWindows95が出て、インターネットやITが一般人に関係するようになったのもこの時期からだ。

 

 

この時期から顕著に増え始めたのが外注

 

社員の雇用に関することに人材派遣が増え始め、求人に関しても外注が増えたが、この分野における砂金とは削減できるコスト(人件費)だった。

 

従来、儲かるとはヒトモノカネの拡大の上に成り立つものだと思われていたところに、コスト削減できれば縮小しても儲けられるというパラダイムシフトが起き始めた。

 

これ以降、外注に効率の良さが求められるようになった。

 

 

昔話はコレくらいにして、最近の外注事情に目を向けると、最近の外注は大事なことを外部に依存するものが増えている。

 

 

儲けたい人が、その儲けのネタを外注するということが少し前に流行った。

 

 

 

 

 

これらがどうなったかは記憶に新しい。

 

 

儲けをチラつかせる外注の世界は旬の移り変わりが目まぐるしく変化するようになっている。

 

 

最近では、指導や助言をしてくれる人をメンターと呼ぶことが増えている。

 

呼び名が変わると内容も変わったように感じられ質的に変化したように勝手に思い込んでしまうが、望むことは古典的で今も昔も大差ないので、指導や助言は本当は質的には変化してないはずだ。

 

指導や助言はお節介と紙一重だが、ここでも効率や結果が重視される。

 

 

指示や命令によらず、メンター(mentor)と呼ばれる指導者が、対話による気づきと助言による被育成者たるプロテジェ(protégé)ないしメンティー(mentee)本人と、関係をむすび自発的・自律的な発達を促す方法である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/メンタリング

 

 

 

 

 

 

指導や助言をしてくれる人の呼び名は次々と変化するが、肝心の中身はどうなのだろうか?

 

求めてる助言や指導が儲かることに関してであるならば、少し考えれば誰でも分かるが、本当に儲かるなら他人に教えるわけないということ。

 

ビジネスでメンターを引き受けようとする人が増えている。

 

YouTubeが流行っているからその編集を外注で引き受けますという話が非常に増えている。

 

映画やドラマに興味がある人ならば分かるはずだが、作品のレベルは編集で決まる。

 

そんな大事なことを外注に出す時点でレベルが高いものになるわけない。

 

 

 

外注することで一気に飛躍しようという考え方が、効率が良いと考える人が増えている。

 

 

賢いとバカは紙一重、このシンプルな事実が再確認できたような気がする。

 

あなたは、外注する派ですか、それともしない派ですか、外注するとすればどんな条件を付けますか?

 

この質問も人物判断には有効だと思う。

メンタルの強さとは?

いつの世も常に弱肉強食だが、求められる強さや、発揮すると有効な強さは時代とともに変化している。

 

腕力や武力の強さであったり、知力や権力だったりもする。

 

これらは複合的に絡んでいるので、決して一つの強さが万能というわけではないが、弱肉強食の世の中を渡るために多くの人が自分なりの強さを身に付けようと懸命だ。

 

弱肉強食を生み出す背景には競争や争いがある。

 

競争や争いがあるところには何があるか?

 

 

ストレスだ。

 

 

ストレスと肩コリはよく似てると思う。

 

あると言えばあるのだが、無縁に見える人もいる。

 

また、その痛みの程度も千差万別のように感じられる。

 

複合的な要素が絡み合って生まれ形作られるのがストレスで、ストレスの正体は簡単には解き明かせない複雑さがあるはずだが、現代はストレスを単独のテーマとして扱うようになっている。

 

そして、万能薬のようにメンタルの強さが求められ評価されるようになっている。

 

メンタルの強さの反対語は、心が傷つくだ。

 

 

 

 

このような話を聞くたびに思い出す話がある。

 

出典も、いつ聞いた話かも思い出せない話で、検索しても「ああ、この話だ」という話には出会わない。

 

 

こんな話。

 

 

『世界で一番強い人とはどんな人か?』、このような問いを立て研究を始め調査が行われた。

 

仮説として、

 

  • 体を鍛えに鍛えてる人
  • 格闘技の達人や軍人や警官や消防士など
  • 超天才的な頭脳の持ち主

 

など、すぐに頭に浮かびそうな種類の人達がリストアップされたが、調査にあたってはさらに条件が絞り込まれ、最も過酷な環境に耐えうる強さと定義し、過酷な環境として戦争捕虜の体験者がそれに当たると位置づけ、生き残っている戦争捕虜の体験者を対象にした調査が始まった。

 

多分アメリカでの話。

 

調査を始めてすぐに分かったのが、捕虜体験者の多くは心を病んでいて、その後の人生にその体験を引きずっているということだった。

 

強いであろう人として仮説を立てていた、鍛えてる人や頭が良い人というのはことごとく外れたが、ごく少数の人だけが捕虜体験後の人生に心の面で全く悪影響がない人達がいた。

 

彼らの、生い立ちや趣味嗜好や人間関係や家族関係や価値観などを調査した結果、全員に当て嵌まるたった一つの共通点があったのだ。

 

それは、

 

些細なことに喜びを感じられる。

 

という共通点。

 

 

捕虜として過酷な作業に従事させられている間も、何かしらの喜びのネタを見つけていたのだ。

 

例えば、「青空が見えて気持ち良かった」や日陰の塀の隙間に雑草が生えているのを見つけて「お前も頑張ってるな、俺も頑張ろう」と本気で思えていた人達だったのだ。

 

 

メンタルの強さを語る時に、強いに重きを置くと大事なことを見失うような気がする。

 

世の中には理不尽がいっぱいある!

今日報じられていた二つの話題を伝えたい。

 

大阪で行方不明になっていた小学生の女の子が発見され、そのニュースを報じる中に次のようなものがあった。

 

 

 

もしや、『別の女の子』とは今年の9月に山梨県で行方不明になった小学1年の小倉美咲ちゃんかもと思ったが、別の子だった。

 

誘拐や行方不明というのは報じられてる以上に多いのかもしれないと思うと社会に潜んでいる闇の恐ろしさが改めて感じられる。

 

 

 

 

昨日来日されたローマ教皇が今日長崎から広島と被爆地を訪れられた。

 

今回の来日は高校生との約束を果たすため。

 

 

 

この時の訪問で、教皇が来日の意志を示したのは高校生が持参していた1枚の写真のせいだった。

 

ローマ教皇 「焼き場に立つ少年」の写真家の家族にあいさつ: NHK

焼き場に立つ少年

 

 

死んだ弟を背中に背負って火葬の順番を待っているその姿は、戦争の無益さを教えてくれるのに十分だが、写真では健康に見える兄である少年も被曝の犠牲者であることが判明した。

 

“焼き場に立つ少年”をさがして : NHK

これまでNHKでは、最新のデジタル技術を使い、数多くのモノクロ映像のカラー化を行ってきました。カラー化するために画像を分析していくと、少年の体に、ある異変が起きていたことがわかりました。

黒い瞳の部分の横に、さらにグレーのかかった部分があることが分かったのです。これが何を意味しているのか。

 

 

 

48年にわたり広島などで被爆者医療に携わってきた、医師の齋藤紀さんは、目のグレーの部分は、出血したあとだと考えられると言います。

写真を詳しく見てみると、鼻には詰め物をしています。このことからも、出血しやすい状態にあったとうかがえます。

 

 

 

少年は、一定量の放射線を浴びたことで、骨髄が傷つき、体中が出血しやすくなっていた可能性があるといいます。少年がなんらかの形で被爆した可能性が浮かび上がってきました。

 

 

改めて世の中には理不尽がゴロゴロ転がっているなと感じられる。

 

ささやかな幸せすらほど遠いものに感じながら生きてる人がいることを思わずにはいれない。

 

幸せとは、あれもこれも欲しがりそれを手に入れることだと思う風潮が根付いているが、それは幸せから遠ざかることなのかもしれないと思えてくる。

 

新しいものを手に入れることに幸せを感じるよりも、持っているものをきちんと理解できることの方が幸せには近いのかもと思わせられた1日だった。

 

 

 

ところで以下は余談だが、

 

ローマ教皇とローマ法王はどう違うのだろうか?

 

少し前までローマ法王と呼んでいたような気がするが?

 

詳しくは検索すればたくさん情報は出るが、11月20日に日本政府が急遽呼称をローマ教皇に統一すると決めたからだった。

 

これも裏読みしたり深読みすると謎めいたドラマができるような気がする。