違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

2020東京オリンピックは期待されてるのか?

一昨日2020年1月6日は、7月24日に開催を迎える東京オリンピックまであと200日と見出しが出ていた。

 

東京オリンピックは盛り上がっているのだろうか?

 

盛り上がっているならば話題になっているはず。

 

そこでGoogleTrendsでオリンピック東京オリンピックで検索可能な2004年以降で見てみると、

 

GoogleTrends「オリンピック」「東京オリンピック」2004年以降

 

200日前だからという部分を差し引いても盛り上がってるとは言えなそうな微妙さがある。

 

実際に盛り上がるのは直前になってからとも思えるが、自国開催でかつ景気浮揚の多大な期待もあるので、もし本当に国民の多くが期待してるならば検索レベルでももう少し盛り上がりが感じられても良いかなと思える。

 

2019年の5月に小さな盛り上がりがあるが、これは東京オリンピックの観戦チケットの抽選申し込みの受付が始まったから。

 

ちなみに、昨年大盛り上がりだったラグビーを加えて比較すると、

 

GoogleTrends「オリンピック」「東京オリンピック」「ラグビー」2004年以降

 

昨年のラグビー(ワールドカップ)が日本で盛り上がったことは検索結果からも読み取れそうだ。

 

これにサッカーも含めてのワールドカップを加えて比較すると、

 

GoogleTrends「オリンピック」「東京オリンピック」「ラグビー」「ワールドカップ」2004年以降

 

2019年以前の日本ではワールドカップと言えばサッカーを意味していたが、2019年からはサッカーとラグビーが拮抗するレベルになったように感じられる。

 

ラグビーのワールドカップが期待されたのは国内における人気アップだけでなく、海外からの観戦者が増えるというインバウンド効果が大きかったが、スタジアム建設などの設備投資はなかった。

 

それでもラグビーのワールドカップは日本に大きな利益をもたらしたと報道されてるが、そのおかげで儲かりましたという方はどの位いるのだろうか?

 

東京オリンピックは、新施設の建設などもあり、景気刺激効果が高いと期待されていて、ほぼ建設も完了してるものが増え、遅くとも今年度末までには残りも完了予定だが、そのおかげで儲かりましたという方はどの位いるのだろうか?

 

 

新春恒例の2020年の景気を占う話では早くも、オリンピック後の景気はどうなるのだろうかと心配する声が多く上がっている。

 

だとしたら少なくとも今はバブルの絶頂で儲かりまくってないと割りに合わないはずだが、今儲かりまくってる人はどの位いるのだろうか?

 

2019年12月の調査結果。

 

オリンピック景気で経済状況は良くなる?社会人の約8割がオリンピック景気に期待していないことが判明!給料は増える?就職はしやすくなる?

「東京オリンピックに期待してますか?」 アンケート結果のグラフ

 

 

 

調査人数が少ないとはいえ、身近に景気の良い話があれば自然と期待するのだろうが、それも無さそうな様子が伺えて景気の良し悪しにも格差が及んでいるのが感じられる。

 

 

東京オリンピック後の景気を心配してるのは経営者だと言われてる。

 

だから、その時に備えてせっせとリストラに励んでいるという噂も多い。

 

これが人手不足の理由だとも言われてる。

 

少々景気が良いからと言って社員なんか雇ったら大変なことになるとでも思っているかもしれない。

 

そういう目で東京オリンピックを見てると、皮肉とも楽観の度が過ぎるとも思える記事が目についた。

 

経営者がオリンピック後の景気を悲観的に捉えるのに対し、オリンピック前の景気を楽観的に捉えるのが現在の大学3年生。

 

 

オリンピック前の就活生は「勝ち組」か?2020年にかける大学生の思いとは

 

詳しくは記事を読んでほしいが、現在の大学3年生は、

 

教授から『日本の景気は東京五輪後に悪くなり、就活が難しくなる。日本の経済は2020年にピーク』と言われました。学生がキャリアを本気で考えるように、教授が発破をかける意味もあったとは思いますが。

オリンピック前の2020年の春に就職活動を行うことになるので、『もし1年遅れてして就活が五輪後になれば、壊滅的かもしれない』という危機感を持っています。オリンピック開催直前の就活はステータスですね。

 

 

と、2020年を捉えているらしい。

 

 

東京オリンピックに期待してる人が、踊らされてるように見えるのはわたしだけだろうか?

 

 

皆さんは東京オリンピックに期待してますか?

 

『合理』と『感情』の折り合いが大事!

カルロス・ゴーンさんの逃亡劇の詳細が明らかになってくると、何かマジックでも使ったかのように思われていた逃亡劇は、関係者の話によると3ヶ月前から計画が始まっていたと分かった。

 

マジックにネタやトリックがあるように、今回の逃亡劇も敷かれたレールに乗って行動しただけの合理的に成り立つ盲点を突きまくっただけだと明らかになってきた。

 

 

実際に起きることは、不思議なことでもすべて合理的に説明可能なのだ。

 

自然現象はもちろん、人間の気まぐれが引き起こしてることでも、その瞬間は合理性が介入してるはずなのだ。

 

後から冷静に考えると「なんであんなことしたんだろう?」と自分自身で思うことでも、その瞬間はその行動を正当化する合理的な理屈に支配されているものだ。

 

令和2年の始まりに世間で話題になった自殺が2件ある。

 

一つは、三宅雪子元議員の入水自殺。

 

動機はなんだろうかと詮索する向きもあれば、入水という手法を巡るものまで。

 

もう一つは、未遂に終わったという話もあるが、人通りの多い新宿の街中での首吊りで、多くの人に写真を撮られSNSにアップされていた。

 

自殺の場所になぜそこを選んだのか?

 

そもそもの動機は?

 

それを見ていた大勢は助けることよりも写真撮影を選んだのはなぜか?

 

 

共感できるかどうかは別にして、すべての行動には動機が存在し、その動機は少なくともその瞬間においてはその人にとって合理的な判断に基づいているのだ。

 

動機はいつでも合理的なのだ、ただその人にとってのその瞬間はという条件付きなのだ。

 

そんな動機に基づいての行動が失敗や間違いにつながった場合、どのような扱いになるかは文化や習慣の違いが出るものだ。

 

 

 

合理の反対語は辞書的には非合理だが、実際には合理の反対語は感情(的)が近いような気がする。

 

しかし、合理⇄感情はグラデーションを描くような存在のはずで線引きに馴染まないような気もする。

 

 

 

「あの人は賢い、あの人は正しい」と判断することと、「あの人はバカだ、あの人は間違っている」と判断するのは同じ思考回路が出しているとすれば、基準は常に同じなのだろうか?

 

基準自体が合理⇄感情のグラデーション上を行ったり来たりと揺れ動いてるように思える。

 

 

大人になると気持ちが揺れ動くことはあまり良いことだと思われなくなるが、誰しもが本当は揺れているのに判断や行動が揺れてないとすれば、それはそれで大事なものを見失うことにつながっているのかもしれない。

 

結果的な失敗を恐れる場合に出番が増えるのが合理。

 

やりたいことをやろうとする場合に出番が増えるのは感情。

 

 

合理と感情は、敵対する関係というよりも折り合いをつける関係と言ったほうが相応しそうだ。

 

なんだか揺れ動いて定まらない時には、合理と感情を分けて整理すると自分が揺れてる理由が見えてくるだろう。

 

俺って(わたしって)、こんな人間だったんだと分かるとそれだけで気持ちが楽になるかもしれない。

 

 

冒頭で触れた三宅雪子元議員の自殺に関して次のような記事が出ていた。

 

三宅雪子氏 交流あったジャーナリストが明かす「暗中模索」 1/7(火)

落選してからの彼女は、長く暗中模索の様子だった。政治家として、世の中のために働きたいというエンジンがかかったまま、動かす場所を見失っていたようにみえた。それでも彼女はもがいていた。頑張ろうとしてもがいてもがいて、そしてどこかで糸が切れてしまったのだろうか。今はただ、冥福を祈るほかない。

 

 

結果を求める『合理』と、やりたい気持ちが重要な『感情』は、ピンチになると対立させてしまいがちだが、折り合いをつけることが大事だ。

 

折り合いをつけることを他人は妥協と呼ぶが、本人にとっては折り合いだ。

 

折り合いは、他人とつけるものではなく、自分自身とつけるもの。

 

 

できないことや、やりたくないことには『No』と言えることが自分を守ることになる。

 

たかがサブスクリプション、されどサブスクリプション!

今日から令和2年が実質的にスタートという人が多いだろう。

 

2019年末の紅白歌合戦は歴代最低視聴率を更新したが、NHKも手をこまねいていたわけではなかった。

 

若者の視聴率を上げようと対策をしていたのだ。

 

令和の「紅白」 若者狙い“サブスク選考”初導入 [ 2019年11月15日

出場歌手の人選は、テレビの中心視聴者層の中高年にも喜ばれ、テレビを見ない世代とされる若者層を振り向かせることが課題。若い世代のヒット曲が紅白を経て流行歌まで高まればサブスク選考が令和の選考法として定着する。

 

いつの頃からか聞くことが増えたことばがサブスクリプション

 

紅白歌合戦に関してはサブスク選考は最低視聴率を更新したという意味では成功とは言えなそうだが、サブスク選考を採用してなければもっと低かったのかもしれない。

 

世間でのサブスクリプションの認知度をGoogleTrendsで検索可能な2004年以降で見ると、

 

GoogleTrends 「サブスクリプション」2004年以降

 

やっぱり最近のことばだと分かる。

 

次世代消費の切り札としてサブスクリプションに期待する声は大きいが、令和元年のサブスクリプション消費の傾向はどうだったかというと、

 

『令和の消費に関するアンケート調査』「2019年は例年よりお金使った人」が7割、最も高かった買い物 1位「旅行」 2位「車」 3位「パソコン」

ここ最近、消費傾向が「所有」から「利用」へと変化していることで増え始めているサブスクリプションサービスについて、普段どのようなサブスクリプションサービスを使っているかを複数選択で聞いたところ、1位は「映画・ドラマ・アニメ」(14.9%)、2位は「音楽」(9.7%)、3位は「本・雑誌」(5.9%)、4位は「食品」(4.7%)、5位は「ゲーム」(4.2%)とのランキングになりました。特に10~20代では「映画・ドラマ・アニメ」は28.9%、「音楽」は21.1%とエンタメのサブスク利用が高いことが分かりました。一方で「サブスクリプションサービスは使っていない」と回答をした人は全体で64.2%となり、今後のサブスクサービスの広がりを感じさせる結果となりました。

 

飲食店でもサブスクリプションは始まっていて、業態としてはカフェやラーメン店や居酒屋やワインバーの一部で採用するところが現れていたが、最近競争が激しそうな焼肉やステーキの業界にも広がったようだ。

 

 

 

 

大食いのための大盛りサービスや食べ放題では、元を取ろうと頑張るとトレードオフとして自分の体調や健康を犠牲にする可能性が高まるが、サブスクリプションモデルだと元を取ろうという気持ちは大食いではなく、毎日通うことで無理なく満足させられるので、お気に入りの店がサブスクリプションを始めてくれたらラッキーかもしれない。

 

元を取りたいという気持ちは、得をしたい(≒損したくない)という気持ちから起き、人間の原始的な欲求だ。

 

 

気に入ったら繰り返し使いたいというのは人情として理解できるので、サブスクリプションがそういう気持ちを満たすのならば十分アリだ。

 

わたしが興味を持つのは、さほど気に入ってるわけではないがサブスクリプションやってるからと繰り返し利用してるうちに、お気に入りと同じ扱いになったりするだろうかという点だ。

 

プライベートでは使いたくなくても、会社や業務で使用を余儀なくされると、慣れてくると「これで十分だ」と思えるものは少なくない、ただそのような場合はコストは負担してないからとも言える。

 

 

これで十分だと思えるものは、コストが折り合えばお気に入りに昇格できるだろうかと考えていると、身近な契約の多くは気に入ったからというよりも、もっと消極的な理由で「まあ、いいか」と選んでるような気がしてくる。

 

そして、一旦使い始めると解約の煩わしさから使い続けるようになる。

 

携帯電話や保険なんか典型だろうが、これらはサブスクリプションだとは言われない。

 

サブスクリプションが増えることは、価値観が所有から利用へシフトしてるからと言われるが、これは別の言い方をすると価値がモノという形から形のない概念にシフトしてるのかなと思えてくる。

 

 

じっくり考えると、サブスクリプションは奥が深そうだ。

 

音と耳の不思議!

情報は目から入るものが多いが、その情報を印象付けるのはその情報の背景にある音声や用いられてるBGMによって決まることが少なくない。

 

 

 

音声やBGMとセットで印象付けられたイメージとその時の自分自身の感情や気分がシンクロすると強く記憶に残る。

 

ホラー映画の怖さがずっと残ってる場合、映像そのもの以上に音声や音やBGMの力に負うところが大きいのだが、記憶の中では映像のインパクトとして残るので、音はおまけ扱いになりがちだ。

 

逆に言うと、音や音声やBGMの使い方で大きく評価が分かれる可能性があるからクリエイターは音に対してものすごく配慮しているはずだ。

 

 

最近だと、下手なホラー映画よりも緊急地震速報を伝える音声や振動の方がはるかに怖いことでも分かるが、音情報は最短時間で脳の中枢に伝わる情報なので、その影響を強く受けることは当然なのだが、そのことを自覚して認識できてる人は少ない。

 

<参考>

ヒトは光や音が意識に上るより前に遡ってそのタイミングを知覚している ~感覚入力のタイミングの知覚~

 

 

カルトの洗脳や、詐欺の舞台裏でも音は猛威を振るっている。

 

 

騙される時には、背景に存在する音や音声がリアリティを高め、

 

騙されない時には、背景に存在する音や音声が嘘臭い作りものだと気付くことが多い。

 

 

 

さらに面倒なのは、音声やBGMと不快なノイズは紙一重な点だ。

 

心地良い音と雑音の境界が曖昧になっている。

 

赤ちゃんや幼児の声をうるさいと感じる人が増えているし、除夜の鐘がうるさいと苦情を訴える人もいる。

 

従来は歓迎されたり許容されていた音がトラブルの元になると言うことは、音自体が変化したわけではないから、聴く人間の側に変化が生じたから起きている現象だ。

 

 

この原因や理由を探ることは極めて個人的な価値観に足を踏み入れることになるはずだから、一般的なレベルで捉えると、音の伝わり方には二種類ある。

 

耳から入ってくる空気伝導と、骨から伝わる骨伝導があるのだが、全部まとめて音を聴くのは耳という扱いだ。

 

録音して聴く自分の声と、普段しゃべってるつもりの自分の声が、一致しないのは空気伝導と骨伝導の違いだと言われるが、わたしの考えでは音を感じて認識する際には耳から入る空気伝導と骨から伝わる骨伝導の無限のグラデーションの組合せで聴こえているのではと感じている。

 

マンションが増えたことで騒音トラブルが飛躍的に増えたが、マンションの騒音は複雑で音の発生源が隣接する上下左右の部屋から出てるとは限らない。

 

実際の騒音は躯体の鉄骨や鉄筋を伝わり、場合によっては各種の配管を通じても伝わっている、このような場合は距離が離れていても周波数が同調すると離れた場所にも伝わって行く。

 

このように考えていくと、音というのは人それぞれが違ったものを聴いていると言えそうなので、同じ音や音楽を聴いていても、絶対音感の持ち主ですら人それぞれが違った音や音楽を聴いていることになるかもしれない。

 

 

何気なく聴こえる音を楽しめるようになると、この世には退屈なんて存在しないと思えてくる。

 

鮮やかな色や音は魅力的!

2009年に話題になった映画にアバターがある。

 

アバター』(Avatar)は、2009年に公開されたジェームズ・キャメロン監督によるアメリカ映画。3D映像による劇場公開が大きく取り上げられた作品であり、世界興行収入は2019年公開の『アベンジャーズ /エンドゲーム』に抜かれるまで歴代1位となる27億8800万ドル(当時のレートで約2518億円)を記録していた。

キャッチコピーは「観るのではない。そこにいるのだ。」。これは、デジタル3D映像の魅力を謳ったものである。

 

 

映像のリアルさや色鮮やかさが大きく取り上げられていたことを覚えているが、わたしは見ていない。

 

より強烈に覚えているのは、アバターを観た人の一部がその後自殺をしてると伝えられたことだ。

 

自殺をしたのはごく一部なのだろうが、インパクトがあったのは伝えられたその動機だった。

 

アバターを観た後に現実の日常生活に戻った際に、『現実の世界とはなんと色褪せたつまらない世界なのだろうか』という理由で生きることに絶望したというのが動機だと伝えられていたのだ。

 

この話を知って思い出したのが、芸術家やアーティストが覚醒剤を使う理由だった。

 

覚醒剤を使うと、色が鮮やかになり、音が生き生きと聴こえる、だから使うし、やめられなくなるという理由。

 

 

これらの話が繋がったので、わたしはアバターには近づいてはいけないと思い映画も観なかった。

 

 

それから10年以上が経過した2020年になった今、今だったら分かるのが、色が鮮明に映った写真や動画の気持ち良さや、立体的に鮮明に聴こえる音や音声(わたしの場合は音楽よりも自然音や環境音の方が魅力的)の気持ち良さ。

 

子供の頃から近眼でおまけに乱視が強いわたしは、見えることにはあまり執着がなかったが、写真に興味を持つと、視力が良い人にはこんな風にきれいに見えてるんだと思うと羨ましく感じるようになった。

 

さらに周辺知識も増えてくると、写真の魅力には人間の眼を超える魅力があることが分かってきた。

 

つまり、視力が良いだけでは見えない世界が写真にはあるのだと分かると、視力が悪いことにコンプレックスを感じる必要はないなと思えるようになってきた。

 

さらに1月1日のブログでも書いたが、リアルな音を録音できるとおもしろそうだと気付いてしまった。

 

www.chigau-mikata.club

 

 

ブログを書いた後で、近所の小さな神社に行ってみると、思った以上に多くの人たちが来ていた。

 

境内の端っこで参拝者が行き交う音声を録ってみたが、子供が多かったこともあり、その場で聞いてもおもしろかったが、後で聞いたらさらにおもしろかったし、いろいろな音が雑音にならずに入っていると気持ち良さすら感じられて興味深い体験になった。

 

完全に自己満足なのだが公開したくなりその時の写真と音声をYouTubeにアップしてみた。

 


2020年1月1日の小さな神社の音の風景

 

少しばかり注意点があるので記すと、

 

 

録音に興味を持つ方がいたら風の音が不快なノイズになりやすいので対策が必要になるが、検索すれば100均グッズや手作りまでたくさん情報はあるので安心して欲しい。

 

こちらは若干配慮が必要になるだろうが、写真も録音も機材のレベルが高くなると、盗撮や盗聴と紙一重の世界だという心配もあるなとも感じ始めている。

箱根駅伝を見ながら、箱根駅伝と関係ないことを思っていた!

多様化する価値観は、人々を多様に分類し位置付ける。

 

分類の種類が増えれば増えるほど、その違いを表現するために便利なことばが日常会話に入り込んでくるようになる。

 

かつてはIT系の専門用語だったような気がするクラスタということばは今や日常会話に出てくるようになった。

 

表面的には多様化する価値観や、人の属性の細分化が、拡大するようになると、その違いや差異を表すことばとして使われるようになり定着したように感じられる。

 

 

クラスタということばが普及したことで、マズローの欲求5段階では区別されてる所属の欲求承認の欲求が一体化したように感じられるようになった。

 

承認の欲求は、所属の欲求が満たされた上で求めるとマズローは位置付けたが、現代では会社に所属していても所属の欲求が満たされてるという感覚は希薄化してるはず。

 

会社や家庭というリアルな所属の場が、所属の欲求を満たせなくなると、所属の場としてのサードプレイスが求められるようになる。

 

サードプレイスは細く定義する必要はなく、欲求が満たせればどのようなものでもOKなのだが、コミュニケーションがあるコミュニティとはいえるだろう。

 

 

小さなコミュニティは、従来は物理的な距離と時間の壁が障害になっていたが、インターネットの充実は物理的な障害を取り払ったので、無数のサードプレイスが存在するようになっている。

 

逆にいうと、無数の需要と供給の関係が成立するようになっているのだ。

 

需要と供給の関係は小型化し縮小化するのは必然なのだろう。

 

 

 

大メーカーの商品が売れないのはある意味当然の宿命と言えるだろう。

 

共感の輪は、大きなものから小さなものへシフトしてるのだ。

 

 

 

独占するとか大儲けするという価値観は、もはや楽しいものを産み出す力を持たないような気がする。

 

陽射しが降り注ぐ中で箱根駅伝を見てると、スポーツ番組のようでもあり、選手を通じて見る人間ドラマのようでもあり、沿道で応援する人や風景を見る環境エンタテインメントのようでもあり、長時間の映像付きBGMのようにも思えてくる。

 

おそらく視聴率は高いだろうが、決して見てた人が同じ思いで楽しんでいるわけではないだろうなと感じられた。

 

 

箱根駅伝と日本人!

2020年の箱根駅伝は下馬評ではイマイチだった青山学院が往路優勝した。

 

箱根駅伝はなぜ人気があるのか?

 

昔から不動の人気だったような気がするが実はそうでもなくて、今のようなスタイルで箱根駅伝が身近な存在になったのは1980年台の半ばらしい。

 

全国区の人気を得ている箱根駅伝だが、実際にはローカルスポーツイベントだったのだ。

 

そんなことを教えてくれるのが次の2年前の記事。

 

なぜ箱根駅伝中継は面白いのか「テレビが箱根を変えてはいけない」

坂田が実現に向けて、社長以下役員を説得していた1986年当時を振り返る。

「企画書はプロデューサーが書くんですが、箱根駅伝の場合、僕の名前だけでは通らないだろうと思ってチームとして出しました。その中にスポーツ中継のエースだった田中君に入ってもらった。それまで僕からスタッフを指名したことは無かったけれど、こればっかりは失敗して悔いを残したくなかったから。彼は僕には無い技術スタッフからの求心力があったからね。役員に指摘された懸案はひとつひとつ潰して行きました。

 

 

ローカル大会ではあるけれど、その年に走った選手の出身地を調べたら47都道府県の中で選手がいないのは2県だけでした。字幕で選手を紹介するときに出身地を出しますと言ったり、地理的に技術の手当てができないところは大会や選手のエピソードなどを映像化してカバーすれば余計に価値も高まりますと説明してようやく役員会議が折れてくれました」

 

 

ローカルな駅伝でありながら1986年当時で選手が0の出身県が2つだったらしい。

 

今はどうなのだろうかと思っていたら2019年12月29日の読売新聞の箱根駅伝特集に次のような図表が載っていた。

 

読売新聞 箱根駅伝 2019/12/29

 

選手0の出身県は、

 

奈良県

和歌山県

島根県

高知県

沖縄県

 

の5つと出ていた。

 

GoogleTrendsで検索データが出てくるのは2004年以降で、すでに箱根駅伝は不動の人気を得ている時期になるのだが、念のために調べてみると今年のデータは明日の復路も残っていてまだ出切ってないが、2004年以降もぐんぐん伸びていることが分かる。

 

GoogleTrends 「箱根駅伝」2004年以降



駅伝の試合は他にもあるし、大学生以外も実業団もあるが箱根駅伝だけはなぜか別格な存在感がある。

 

箱根駅伝出身の選手が卒業後にマラソンや実業団に進んでも、箱根駅伝に出てたときのような気持ちで応援する気にはならないのはなぜだろうか?(わたしだけだろうか)

 

箱根駅伝の魅力を語る話は多いが、その中に敗者の美学と表現されるものがある。

 

最近は強いチームがもてはやされる傾向を感じるが、箱根駅伝が盛り上がる要因の一つに、襷を繋げなかった選手やチームが泣き崩れる姿というのがあったような気がする。

 

駅伝の大会はたくさんあるが、襷が繋げない涙は箱根駅伝が一番似合っている。

 

敗者の美学は、儚さの美学でもある。

 

そういえば、駅伝というのはそもそも日本発祥のスポーツだ。

 

そして走れメロスの世界観がある。

 

メロスなんて名前が付いてるから外国の話だと感じるが作者は太宰治。

 

明日の復路にはどんなドラマが起きるだろうか?

 

復路には繰り上げスタートがあるから敗者の美学もきっとあるだろう。

 

箱根駅伝が好きな人はコテコテの日本人と言えるだろう。