違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

令和2年はASMRを意識して音にこだわってみようかと思っている!

新年が始りました。

 

おめでたいかどうかは別にして、新しいことに興味と関心を向けてみたいものです。

 

ASMRをご存知ですか?

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/ASMR

ASMRAutonomous Sensory Meridian Response)は、人が聴覚や視覚への刺激によって感じる、心地良い、脳がゾワゾワするといった反応・感覚。正式、及び一般的な日本語訳は今のところ存在しないが、直訳すると自律感覚絶頂反応となる。

 

2015年の研究では7〜8割が睡眠導入の補助とストレス解消のために利用しており、性的興奮目的のものは5%程度であった。

 

 

 

わたしは最近知ったばかりだったが、世間の認知はどうだろうかとGoogle Trendsで見てみると、まずは日本の場合。

 

 

Google Trends『ASMR』日本の場合 2004年以降

 

 

世界の場合。

 

Google Trends『ASMR』すべての国 2004年以降

 

 

日本は世界の2〜3年遅れて徐々に認知が進んでいるようだ。

 

Wikipediaの解説では聴覚や視覚への刺激とあるが、比重は聴覚の方が上だ。

 

 

情報化時代の現代では、情報の8割から9割が視覚情報だといわれている。

 

そんな現代に、自然発生的に心地よい音を求める動きが高まる動きを見せていることが興味深い。

 

まだまだごく一部の動きだろうが、極端に視覚からの入力刺激に偏っていた流れを修正するかのような動きに感じられる。

 

 

危機管理の際には、視覚情報よりも音や振動の方が雄弁に危機を伝える。

 

 

音に対してこだわってみたいというのは以前にも思ったことがある。

 

しかし、この気持ちを持続させるのはなかなか難しかったのは目標が定まらないから。

 

最近タイムラプスを楽しむことが増えているが、タイムラプス撮影ではカメラの内蔵マイクは機能しないので、音が欲しければ後から編集で追加するしかないが、一般的には音楽を付けるだろう。

 

しかし、YouTubeなどににアップしようと考えると選択する音楽によっては著作権の問題が発生するので、好きな曲だからという理由では使えないのだ。

 

そのようなことを年末から考えていたら思い出したことがあった。

 

 

そう言えば、買っただけでずっと使ってなかったレコーダーがあったなと。

 

レコーダー

 

 

一般的なボイスレコーダーよりはサイズが大きいが録れる音質が良いらしいという理由で3年位前に買ったが、結局使わずにしまい込んでいた。

 

特別高い値段でもないので軽い気持ちで買ったのだが、これでいわゆる生録で現場の音を録ればタイムラプスのBGMの替わりに十分機能してるかもと期待する気持ちが高まっている。

 

 

 

正月は、少し外に出て音を集めてみようかと思っている。

 

令和は結果よりもプロセスが大事!?

2019年を総括するのに相応しそうな記事があった。

 

宝くじの低迷は「当たらない」から? 公営ギャンブルと対照的…運営側は打開策模索

苦言の背景には近年の宝くじの売り上げ減がある。

 

ピークの平成17年度に1兆1047億円を記録した後は毎年のように減少。24年度以降は1兆円を超えることはなく、29年度は7866億円と20年ぶりに8千億円を割り込んだ。

 

 

この記事に対してこんなツイートがあった。

 

 

このツイートの内容は一つの真実だろうが、もしかしたら金があっても宝くじを買わない人が増えてるのかもしれないとも思える。

 

そういう意味で、この記事に対して寄せられてるコメントが興味深かったので以下は上位にランクしてるものを引用してみた。

 

 

掛け金に対し戻ってくる可能性の平均金額の割合を期待値と呼びます。還元率と表現した方が分かりやすいかもしれません。宝くじは期待値が50%前後ですが、競馬や競輪、競艇などは75%前後とされており、元々儲けにくい傾向があります。いくら地方への還元度合いが高くても、購入者自身への還元率が低ければ購入意欲がわかないのも当然。

また単純な「地域貢献」では対象が不鮮明なので行動機会にはつながりません。

 

 

 

年末ジャンボなんて、1等の当選確率が2000万分の1という超低確率。10枚買っても200万分の1。

買わなきゃ当たらないというが、買ってもまず当たらない。

 

 

You Tubeでも何百万円分買ったけど1等は当たらなかった、還元率も悪い、みたいな動画けっこうあるしね。

 

当選金額を大幅に下げる代わりに当選本数を大きくアップさせたら良いのに。

 

複数のユーチューバーが「宝くじ1千万円購入企画」をしてるが、誰も高額当選していない。本当に3等以上は本当に存在してるのだろうか?

 

 

日本の最新技術で売れてない番号が当選する仕組みに・・・。だいたい宝くじに当たる確率よりも宝くじ買う為に外出して事故に遭う確率のほうが高いってのが なんだかねぇ。

 

 

 

「買う金が無い」以外の理由として顕著なのが『結果が期待できないものには課金しない』という理由。

 

一世を風靡していた頃のライザップの謳い文句の『結果にコミット』がいかに魅力的だったが感じられる。

 

結果とは何か?

 

生き方や価値観が多様化すると言われるが、求める結果が多様化してるのかもしれない。

 

最終的な求める結果はお金や儲けだとしても、そこに至るプロセスも重要になってるかもしれない。

 

結果にはプロセスも込みだとすると、始まりの時点では希望期待は重要な要素になる。

 

結果にコミットするライザップのダイエットは、金を払えば勝手に結果が出るものではなかった。

 

運動もキツいが、それ以上に食事の管理がキツい。

 

そのキツいプロセスをマネージメントするのがライザップの売りだったが、その価値やコストパフォーマンスを理解できる人は少数派になるだろう。

 

自己管理をきちんとできる人にとっては自分一人でできるマネージメントなので、マネージメントできる人にとってはライザップは全く必要ない。

 

 

昭和、平成と、人も企業も結果を求めただろうし、プロセスだってどうでも良いわけではなかったが、結果とプロセスを天秤にかけると結果を優先させていただろう。

 

そして結果を得れるならばプロセスを省略できることが効率的で生産性が高いと評価してきた。

 

 

しかし、時代が令和に移ったことで、結果を期待できるだけのプロセスが伴わないものや仕組みが評価されなくなっているように感じられる。

 

いまだに「買わなきゃ当たらない宝くじ」と言われ、この理屈はさまざまな場で活用されてるが、このことばは徐々に死語に向かうかもと感じている。

 

結果が大事なことは当然だが、これからは結果以上にプロセスが大事になるとするならば、取るべき行動として重要なのはプロセスの選択になるのだろう。

悲喜交々な『循環するもの』!

世界中で自然災害が起きてるように感じられるが、2019年は日本が最悪だったらしい。

 

異常気象 豪雨や猛暑の日本が世界で最悪の被害 独の環境NGO 2019年12月5日

ドイツの環境NGOは、去年1年間に異常気象で世界で最も深刻な被害を受けたのは、記録的な豪雨や猛暑に見舞われた日本だったとする分析を発表し、温暖化対策の強化を呼びかけました。

 

 

今年の日本の災害の特長は、台風や水害が首都圏を襲ったことで被害の高額化が顕著だったが、それでも東京の中心部が被災したわけではなかった。

 

 

温暖化に起因する災害は大型化ばかりが話題になるが、温暖化の恐ろしさはむしろ循環を変化させてることにある。

 

氷が溶け、気温が上がると警戒されるが、それは入り口であって、本当に怖いのは水の循環(氷や水蒸気も含む)が変化してることだ。

 

台風の進路が昔と違ってるような気がする人も多いだろう。

 

今年の台風が首都圏を襲ったことをたまたまだと思っていると今後先が思いやられるかもしれない。

 

 

ところで世間には台風はコントロール可能で、すでに兵器として利用可能だとする説も見受けられる。

 

理屈が分かるとコントロールしたいと考えるのは人間の性と言えそうだが、理屈が分かることとコントロールできることの間には天と地の差があると思う方が賢明だ。

 

次のツイートが参考になるだろう。

 

 

 

ところで自然災害に限らず、問題が起きる時に循環の変化が原因になってることは非常に多い。

 

しかし、循環に問題があるという捉え方よりも、末端で起きてる事象にだけ注目が集まって、根本原因を見落としてそうに見える場合が多い。

 

 

病気や体調不良になると、自覚する不調箇所の問題だと思い込み、系全体で捉えようとしないことが多いのは、医者の専門領域の細分化と密接に関係してるはずだ。

 

症状や問題は、一部の末端で顕在化するが、末端の問題ではなく系の問題で起きてるとすれば、末端に対処しても解決には至らない。

 

ヤブ医者とは、腕が悪いというよりも、自分の専門領域の中でしか考えられない医者と言った方が的を射てるかもしれない、そういう人は全体を見るということができない。

 

 

人の動きにも循環があるが、その偏りが極端になると過密と過疎が起きるようになる。

 

そんな偏りを当然のことだと説明する合理的な理屈も生まれてくる。

 

 

循環としての人の流れや動きが偏るように、金の流れや動きも大きく偏っている。

 

『カネは天下の回りもの』ということわざは、今や実感が乏しいことわざになっている。

 

 

このように世の中には循環すると言われるものはいろいろあるが、流れが回ってくると嬉しいものもあれば残念なものもある。

 

 

全体を俯瞰で見ると循環してることが分かっても、途中の一部だけを見てると一方向にしか流れていない。

 

 

こんなことを考えていると、「話せば分かるは嘘」と書いてあった養老孟司先生のバカの壁を思い出す。

 

 

上手く行ってる時はスムーズに流れる循環は、偏りが目立つようになると現場では流れではなく壁が生まれるというのはなんだかおもしろいが、偏りは多様化につながり、多様化は小さな壁を多く作りりそうな気がする。

 

同じ循環に属してる人が集まる壁のないコミュニティを持つことが生きやすさには必要だろう。

 

行き過ぎと揺り戻し!

今や世界一長寿といわれる日本の女性の寿命が、急に伸びたのは水道の普及とリンクしていたという話をブログに書いたことがある。

 

www.chigau-mikata.club

 

水を汲むのは女性の仕事だった時代の水汲みの重労働さが女性の寿命を短くしていたというのは、今となってはお伽話のように感じるかもしれないが、ほんのちょっとが大違いということを示す事例と言えるだろう。

 

この水道の話は良い話だが、悪い例をあげると汗にまつわる話がある。

 

20年くらい前から、当時の中高生に症状が出てると話題になったことがあるが、汗をかけないために体温の調節ができなくなり、それに連動して他の体の不調や不具合が生じるという話だ。

 

理由は、生後間もない時期から良かれとエアコンが効いた環境で育ったために汗腺が発達することなく成長した子供に現れる症状で、汗腺の発達は3歳位までらしいので、それ以降の努力では如何ともし難くなるらしい。

 

それからしばらくすると、夏には赤ちゃんに汗をかかせることは大事だという話題が夏に出るようになったが、その後日本の夏の猛暑化が顕著になり出すと、汗をかかせない危険と、汗をかかせる危険の、どちらを取るのが良いのかが、分かりづらくなったかもしれない。

 

 

ここに上げた二つの事例は、トレードオフが見えやすい事例として上げたが、あくまでも噂のレベルだ。

 

便利や快適が当たり前ではなかった時代と、便利や快適が当たり前になった時代では、トレードオフに対する意識もずいぶん変化した。

 

普通に生活してると体を使うことが多かった時代では、スポーツなんかしなくても運動量はスポーツ選手並みというスポーツをしない人はたくさんいたはずだ。

 

体を使うことが当たり前だった時代には、活動するための時間に対する考え方が今と違っていて定時に対する意識が強かった。

 

当たり前だが、心よりも体が疲れていたからだ。

 

 

 

しかし、現代ではスポーツや運動をするために時間とコストをかけてジムに行くという文化ができ上がった。

 

そんな時代では、定時に対する意識はずいぶん変化した。

 

便利で快適な環境下で長時間活動する風潮が増したのは、ひとえに体が疲れなくなったから許容されたことだ。

 

しかし、そんな世界にもトレードオフが顕在化し始めた。

 

体よりも心が疲れ始め、心が疲れると体にも悪影響が現れるようになった。

 

体だけが疲れていた時代よりも疲れるようになったのだ。

 

当然、前の疲労が抜けない状態の上に新たな疲労を積み重ねるようになるだろう。

 

 

疲れや疲労といっても、心と体がバランス悪く疲れると、疲れの質も量も大きく変化するのだ。

 

 

 

時代というのは、行き過ぎと揺り戻しを繰り返してるように感じられる。

 

同じ時代の中には、行き過ぎた世界と反動による揺り戻しの世界が同時に存在することになる。

 

行き過ぎた世界に活路を見出すのか、それとも揺り戻す世界で活路を見出すのか?

 

全く結論の無い話だが、人生はつくづくサーフィンだなと感じる。

 

次々と波を乗り換えて進んで行くのだが、自分が乗れる波を見つけタイミングを合わせるしかできないのだ。

 

他人が乗ってる波を分析してもしょうがないのだ。

 

 

今日ショッピングモールに出かけたのだが、大勢の人を見ながら、同じ場所に大勢の人がいるが皆それぞれに違う波に乗っていて、次から次に波を乗り換えているんだろうなと思えた、目には波なんてどこにも見えないのに。

アナログからデジタルへのシフトは全てをレイヤー構造に分解させている!

複数の課題やテーマや案件を同時にこなす能力をマルチタスク能力と呼ぶが、マルチタスクと呼ばれてることの多くは実はシングルタスクの切り替えで、同時に複数のことはできないのではという話を以前書いた。

 

www.chigau-mikata.club

 

そんなマルチタスクはシングルタスクの切り替えだ、という話と共通しそうで現代では必須の仕組みがレイヤー構造だと感じる。

 

イラストの制作工程が分かりやすいので次のツイートを参考にしてほしい。

 

 

別の表現をすると分業や役割分担が似てるが、昔だったら優秀な人だったら一人でこなしたり、分業ではなく一度に同時に作業していた。

 

同時に複数の課題を上手にこなすというのは、要領を教えたからといって簡単にはできないので、器用であるということは特別な能力として重宝されたし、簡単に他人に置き換えることができない優位性も保っていたが、難解なこともシンプルな複数のレイヤー構造に分解できることに気付いたら、器用さという特殊能力に依存する必要が減るようになった。

 

レイヤー構造が浸透すると、器用であることよりも丁寧さが求められるようになり、経験の差はあっても丁寧であれば誰でもできる作業となり、現代ではその丁寧さに速さも求められるようになったので、人間の手を離れ機械化、自動化、に任せることが多くなった。

 

レイヤー構造で捉えることを可能にしたのはデジタルのおかげだ。

 

昭和の頃で、アナログなレイヤー構造で身近に存在したものとしてはスライドがある。

 

複数のフィルムを重ねることで表示するデータが生き物のように変化していた。

 

教育やビジネスの場では必須だった。

 

この仕組みに汎用性を与えたのがデジタル。

 

 

アナログの時代には全てが一つの面や空間に存在していたが、そこにデジタルが入り込んでくると、一つの面や空間に感じられていたものが複数の層の組み合わせで構成されているという見方ができるようになる。

 

写真の編集の世界には、被写界深度合成と呼ばれるものがある。

 

Wikipediaでは焦点合成

 

顕微鏡で見るように、小さなもの(虫や花粉のような)を大写しにしようとすると、焦点はごく一部にしか合わないので必要な全体をくっきりと大きく見ることはできない、そのような時に微妙に焦点をずらした複数の写真(カメラの設置位置とアングルは同一のままで)の焦点が合った部分を合成し一枚の全体がくっきりと撮れた写真を編集するテクニック。

 

これもレイヤー構造で捉えたからこその発想であり、デジタルだからこそできること。

 

 

 

このような層の組み合わせで構成される造りがレイヤー構造と呼ばれ、編集作業が付き物の世界に革命を起こしたのだが、縁が無ければ全くどうでも良い話だ。

 

ある作業がレイヤー構造に分解できると分かると、分業や編集という作業が浮き上がってくる。

 

便利なので趣味や遊びで活用するには良いことばかりなのだが、仕事でとなると生産性や効率を突き付けられやすいのでブラックと相性が良くなるという欠点がある。

 

 

最近動画で遊んでみようかなと編集アプリを使い始めて、初めてこのレイヤー構造というのが分かるようになってきた。

 

デジタルでの手描きにも威力を発揮していて、アナログの時代だと手先の器用さのみに依存していたことが、緻密な計算ができれば器用ではなくても丁寧さを持ち合わせてれば、互角に太刀打ちできるレベルを可能にしている。

 

 

信じるか信じないかは別にして、全ての現象や物理的な存在は数学的に説明可能だと言われる。

 

子育てで、賢く育てたければ芸術を学ばせろと言われる。

 

一見数学的なことの正反対に感じられるが、実は芸術の多くは、特に音楽は数学そのものなのだ。

 

入り口が正反対に感じられるが、中身は同じらしい。(もちろんわたしにはなんとなく以上には分からないが)

 

そういえば音楽なんて完全にレイヤー構造で、楽器やボーカルなどパートごとに完全に独立した存在に分解できるし、一つの音楽に感じられていたものは複数の楽器パートの合成だと気付く。

 

仕事やビジネスの多くがレイヤー構造で分解されてるが、そのレイヤー上に自分の居場所を限定すると幸せから遠ざかるような気がする。

 

反対に、趣味の分野がレイヤー構造で成り立っているならば丁寧ささえ持ち合わせていればかなりのことが一人でハイレベルにこなせそうだ。

 

なんだか不思議な方向に話が向かってるような気がするが、向かう先にはこういう話があるような……。

 

この記事は2019年のもの。

 

ニートの名言「働いたら負けかなと思ってる」をマジで笑えなくなった“平成の終わり”

この「働いたら負けかなと思ってる」の初出は、2004年(平成16年)9月にフジテレビの番組『とくダネ!』で放送されたニートの男性の発言である。さらに番組中では「今の自分は勝ってると思います」という言葉も続いた。いまや、「ニート」(Not in Education, Employment or Training, NEET)はすっかり一般名詞として社会に定着したが、当時はまだ珍しい言葉であった。

 

 

だが、15年前は珍発言として笑われていた「働いたら負け」は、いまや相当にシリアスな説得力を持つに至っている。もちろんニートをやっていれば食っていけず、また就業を希望したときの社会復帰も相当にしんどいはずなのだが、苦労をして働いたところで、往年の野原ひろし並みの「平凡」な幸せすら得ることは困難なのだ。

 

この変化は間違いなく、平成の悪しき遺産に違いない。ネット上でおもちゃにされていたネタ発言が、令和の時代まで残らないことを祈るばかりである。

 

 

レイヤー構造の中で仕事をするのは考えものな令和は既に2年目に入る。

文章vs写真vs動画!

タイトルにはvsと付けたが優劣を競わせようとしてるわけではなく、なんとなくは理解できてることもあえて考えると分からなくなりそうなので、備忘録的に整理してみたいと思って書いている。

 

 

昭和に生まれ育った者としては、暗黙のうちに文章よりも写真が上で、写真よりも動画が上だと位置付けてしまう。

 

百聞は一見に如かずなんてことわざもあるが、コンテンツとして上とか下という意味ではなく、技術的なハードルの高さとしてや掛かるコストのハードルとして紙よりもフィルムの方が上(=高い)であり、書くために必要な機材や印刷技術よりも、撮影する機材や撮影されたものを再生する機材の方がハードルが高いように感じられていたからだ。

 

今だから分かるが、この先入観はアナログの技術に対する序列観でもあったのだ。

 

 

デジタルが普及し始めた初期の頃はインターネットの回線速度が遅かったのでアナログの序列観を壊せなかった。

 

 

 

そして時間が経過し、多くの分野にデジタルが浸透し普及すると一気にアナログの序列観が消えてしまったように感じられるし、むしろ逆転したように感じられる。

 

 

写真にしろ動画にしろ、クオリティを問わなければ、シャッターを押すだけであり、録画ボタンを押すだけだ。

 

それに対して、文章を書くという行為は、紙に筆記具で字を書くのに比べればはるかに楽になったとはいえ押す回数だけで言えば写真や動画よりも断然多い(繰り返すがクオリティを問わなければ)。

 

 

アナログからデジタルに移ったおかげでなにが違ったかというと、やり直しが容易になったことであり、編集や加工という手直しが容易になったことだ。

 

このおかげで、ベースになるものさえあれば後でどうにでもなるという気楽ささえ感じられるようになったが、じゃあその分より良いものが多数増えたかというと、ここは意見が分かれるところだろう。

 

文章にしても写真にしても動画にしても、作るだけなら誰にでもしかも容易に作業ができる環境が整っている現代では、優劣やクオリティの差はどこで付くのだろうか?

 

よく言われる話に情報量の違いというものがある。

 

 

検索すると、1分間の動画は180万文字に相当し、それはWEBページ3600枚に相当するという話や、動画は文章の2倍記憶に残るという話が出てきたりする。

 

本来は分かりやすく伝えることが目的のプレゼンや会議の場で用いられるパワーポイントだが、その是非を巡ってこんな話もある。

 

Amazonがパワーポイントを禁止にした理由に頷く人が多いワケ

視覚的には訴えるものがあるものの、中身がない

 

ただAmazonがパワポを禁止してるのは社内資料として使うことであって、社外でのプレゼンの現場では使っているらしい。

 

とは言え、視覚に訴える力が強いということは良いことばかりではなさそうだ。

 

視覚に訴えるという文化は、テレビが浸透させた。

 

テレビが一家に1台から、一人に1台に向かい始めたのが1980年台の半ば頃。

 

 

その頃から言われ始めるようになった不思議な現象がある。

 

視覚に訴える力が強い動画を駆使して報道されるニュース番組が伝えるニュース内容よりも、アナウンサーやキャスターのファッションの方が視聴者の目を惹きつけていたりするようになり始めた。

 

視聴者が注目してるのはニュースではないということに番組制作側が気付きだしたからだろうが、ニュース番組の女性キャスターがミニスカートのスーツ姿が定番になり出した。

 

 

伝えたいことが、伝えたいとおりに、伝わるとは限らない。

 

 

世の中には、なぜ売れてるのか、なぜヒットしてるのか、全く不明なものがたくさんある。

 

その一方で、自分が欲しがるものはやっぱり他人も欲しがってるなと感じることもたくさんある。

 

それは、発信された情報が正しく伝わった結果であり、同時に誤解されて伝わった結果でもあり、その合わせ技での結果だ。

 

視覚に訴えるものには二通りあると思っている。

 

脳を介して感情に訴えるものと思考に訴えるものの二つ。

 

文章も写真も動画も視覚を入り口にする。

 

文章と動画は、説明的であり解説的になりがちで、作った側の意図が強く出てしまう、そして時間軸が現れる。

 

時間軸が感じられると、思考にアピールすることが多そうだ。

 

これに対して写真は撮った人ですらコントロールできる範囲が狭く、そこにはいつなのかは不明でも一瞬の存在が描かれる。

 

一瞬は感情にアピールすることが強そうだ。

 

 

最近俳句が流行っているが、不思議なことに文章で描かれていて時間軸があるはずなのに、そこに描かれているのは一瞬の世界という場合がある。

 

わたしの頭には芭蕉の句が流れている。

 

 

古池や蛙飛びこむ水の音

 

 

感情にアピールする一瞬は、物語の始まりを予感させる。

 

まだまだ文章の世界は侮れないなと感じている。

 

たまには抜いてみるのも悪くない!

由来を遡ろうとする時、それがもの(動物や昆虫なども含む)であるならば原産地や生産地や生息地などを知りたくなる。

 

人であるならば出身地や出生地を知りたくなる。

 

人に関しての出身地や出生地というのも昨今の風潮からすると重大な個人情報で秘匿の対象となるのかもしれないが、その人への興味や関心があれば気になったり知りたいと思うのは自然なことだとも思える。

 

ちなみに、出身地と出生地は日常会話ではあまり区別しないが、生まれた場所を指すのが出生地で、出身地とは一定期間を過ごした人格形成等に大きな影響を与えた場所と定義されるらしい、だから出生地と出身地が違っても不思議なないのだ。

 

 

このような延長線上で、遺跡の発掘などをイメージすると、出土した場所は明確だから場所に関する疑問はなにもない、ではその遺跡を特徴付けるのは何だろうかと考えると、出土した遺跡やそこから見つかった品々がいつの時代のものだったのかであり、形がバラバラになってれば元の形はどうだったのかであり、色だって変色してるとすれば元の色はどうだったのかなどが知りたくなるはずだ。

 

人間を含めて生き物の場合に限らず、ものであっても興味が由来に関する場合は、原点は場所や地域に関係するのに対し、原点となる場所は明確だが由来が不明な場合は、いつ頃のものなのかや元の形や色を想像したり推理しながら探ることになる。

 

そんな探る作業の最先端は科学技術を駆使したものもあるが、ここではもっとのんびりした情緒的な世界に焦点を当ててみたい。

 

 

観察映画という独自ジャンルを築いた相田和弘監督の作品に『港町』がある。

 

日本の夕日百選にも選ばれた岡山県瀬戸内市牛窓を舞台にした映画。

 

この映画は当初色にこだわった映画として撮影されたが、でき上がった映画はモノクロ。

 

その経緯であり葛藤をインタビューで次のように答えている。

 

 


牛窓を「観察」した映画 想田和弘監督 新作「港町」を語る 岡山県・瀬戸内市

 

4分50秒のあたりから白黒で撮った理由に触れる。

 

ざっと次のようなことを述懐として語っていた。

 

 

この映画は色が重要で、色にはこだわった、特に夕暮れの色には。

 

だから映画のタイトルは『港町暮色』と付けていた。

 

そうやってこだわり抜いてできた作品を観て「なんか違うな?」という想いが拭えなくなった。

 

そんな様子を見ていた妻が「じゃあ、モノクロにすればいいじゃん」と言った。

 

「なにを言ってるんだ、こんだけ色が重要だと言ってるだろう」と思ったが、他に打つ手も浮かばないし、追い詰められていたので色を抜いてみた。

 

そしたら、とてもおもしろくなっていた。

 

その結果、色と共にタイトルから『暮色』を抜いた。

 

モノクロにした途端に、虚構性が高まり抽象性が高まった、その結果どの時代のどこの街なのかが分からなくなった。

 

見ようによっては200年前の世界にも見えるし、見ようによっては200年後の世界にも見える、時空に浮遊してる感じがして夢のようでもあり違う次元に行った感じがした、ドキュメンタリーでありながらそういう世界が表現できたことがおもしろかった。

 

※一般的なドキュメンタリーは制作者の主観を強く反映する。

 

 

現実の自然界には実に多様な色が溢れている。

 

しかし、人間がアウトプットとして色を自在に使えるようになったのは最近のことなのだ。

 

写真やテレビは当初白黒の世界だったが、徐々にカラーが浸透していった。

 

染料や塗料や絵の具だって今のようにラインナップが充実したのは最近のことなのだ。

 

だからだろうが、白黒で表現される世界には古臭さが感じられる。

 

 

前半部分で、場所は明確だが由来が不明なものに関しては、形と色といつのものかが気になる、と書いた。

 

逆に考えると、

 

  • かたち
  • いつ

 

の3つが確定するとイメージは具体的になると言えるし、どれか一つが欠けるとイメージは彷徨い続けるように感じられる。

 

分からないことが不満だったり、分かることが目的の場合には、この3つは確定させなければいけないが、謎や不思議を楽しんだり、味わいたいと思うならば手っ取り早いのが色を抜くという作業かもしれないと気付く。

 

色を上手く抜くと、『いつ』も変化する。

 

急速にテクノロジーが可能にした、なんでも付け加えたり掛け合わせることの多くは、完成度が高いが故におもしろさも奪い去ったように感じられる。

 

押してもダメなら引いてみろのように、足したり掛けたりするだけでなく、時には抜いてみるというのもおもしろいかもしれない。