違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

全ては選挙活動!

ビジネスや学校教育の世界にテレワークやリモートワークが浸透し始めると、顕在化するのはテレワークやリモートワークに向いてる作業や業務とそうでないものに分かれるということだ。

 

機械や装置やシステムが動かなくなった場合、その原因が物理的な部品の破損に起因してれば現場に出向いて壊れてる部品を替えるしか回復させる方法はない。

 

しかし、施されてるプログラムや設定に起因してることであればテレワークやリモートワークで対処できる場合もある。

 

対象が機械や装置やシステムであればテレワークやリモートワークに向いてそうだ。

 

人と人がコミュニケーションを取り合って成り立ってることであっても、その作業がプログラム的なルーティンワークであればシステムと見做せるのでテレワークやリモートワークと相性は良さそうだ。

 

コロナ対策としての自粛が機能しない理由としては、人と人が織りなすコミュニケーションの中でもルーティンワーク的な流れで処理できないことや、もっと丁寧に念を入れて対応したいことが少なくないからだろう。

 

このようなことの中で積極的な意思を伴ってることを一言で言うなら、下心があるからと括れるはずだ。

 

下心とは、

 

秘事だったり、

 

損得が絡むことだったり、

 

悪事の企みだったり、

 

など、直接顔を合わせ、なおかつ顔を寄せ合い、時には肌を寄せ合うようにコミュニケーションを取りたいような場合だと思える。

 

そのように思い当たった時に合点がいったのが政治家の会食だ。

 

特に自民党で、長年の与党経験が作り上げた文化なのだろう。

 

 

政治家の最大にして唯一の関心事は、次の選挙でも当選することだとは昔から言われている。

 

議員辞めればただの人と言われる議員という立場は、一般的には強い執着心でしがみつく立場なのだ。

 

逆にいうと、手放す時にはそれなりのことがないと気持ちは納得できないはずだ。

 

大抵の場合は、下心のせいで大きな火傷を負うのだ。

 

 

「辞めれば大ごとにならない」 吉川元農水相、捜査意識か―現金授受疑惑・東京地検  2020年12月26日

吉川氏は大手鶏卵生産会社「アキタフーズ」(広島県福山市)前代表から、農水相在任中だった2018年11月と19年3月にそれぞれ200万円、同年8月に100万円の計500万円を受領した疑いが持たれている。

 

 

政治家は、次も当選したいと考える、そのために何が必要か、その答えがお金であり人と会食することなのだ。

 

 

政治家の日々の活動は、全て次の選挙で当選したいという下心のためであり、重鎮と言われる立場の議員であれば当選するだけでは満足できず、自分の影響力を増大させたいと望むはずだ。

 

そのためには、人の心を束縛したいと考えるだろう。

 

熱意や情熱で人を説得しようと考える人は多いかもしれないが、実はそれでは人は集まらないし、集まった人同士の結束力も弱いのだ、それなりの人生経験がある人だとなんとなく分かるはずだ。

 

では、どんな時に人の結び付きは強くなるのか?

 

それは共犯関係だ。

 

現実社会の中で、やってはいけないことを共有することだ。

 

渡してははいけないお金を渡したり、受け取ってはいけないお金を受け取ったりで成立するし、最近だと、やってはいけない会食で食事代を奢ったり奢られたりのことですら共犯関係が成立するのかもしれない。

 

 

 

 

この話題、伝えられた当初はその金額では従業員の雇用はもちろん店舗の維持すらできないという声が多かったような気がするが、最近では個人店舗で1日の売り上げが1万円にも満たない店舗ですら1日あたり6万円受け取れるということで時短バブルと喜んでる人も多いらしいと知れ渡り始めてる。

 

このことを知ると、不公平や不平等を感じるかもしれないが、これは選挙活動で協力金という名目で一票を手に入れようとしてるだなと考えると、手に入れた票と失った票の内訳はどうなってるのだろうかと興味が別のものにシフトしてゆくのを感じる。

 

政治家の発言や行動は全て選挙活動だという目で見ると、世の中の見え方が違ってくる。

 

酷使される目、リラックスする目!?

Wikipediaによると情報化社会と言われるようになり始めた起源は1960年代らしい。

 

つい最近の傾向のようでもあり、意外と歴史があるなとも感じられる。

 

今生きてる人の場合、持ってる情報の差はとてつもなく大きいかもしれないが、それぞれの人が入手する情報の入手経路の80%以上は目から入っていると言われている。

 

つまり、目はとても疲れている可能性が高いのだ。

 

わたしは母からの遺伝のせいだろうが小学校6年くらいから急速に視力が落ち始めた。

 

その頃は、メガネをかけることはとてもカッコ悪いことだったので抵抗していたが、中学入学でメガネを購入して授業中だけかけるようになった。

 

最初は、クラスに1人2人だったメガネをかけた生徒は、気がついたら増えていた。

 

その頃は、視力を悪くする要素は、本を目の近くで読むこと(暗いところで読むから)と、テレビを近くで見ることが原因だと言われていた。

 

それから数十年、現在ではメガネを必要とする人の方が多いくらいなのかもしれない。

 

情報化社会と相俟って、目はきっとさぞかし酷使されているのは間違いないだろう。

 

わたしが視力が悪くなり始めた頃は、10代の少年少女にとってラジオというのはとても身近で重要な情報源だった。

 

インターネットなどない時代であり、テレビは一家に一台で自分の自由に見れなかった時代の若者の情報は耳からも多く入っていたのだ。

 

しかし、ラジオは徐々に存在感が薄くなって行き、その裏でテレビが一人に一台の時代に移っていった。

 

それが当たり前になった時に突然現れたコロナのせいで再びラジオが一部で注目を浴びるようになっていた。

 

 

 

 

あるラジオ局関係者は、……

 

「一般的に、目はかなり酷使されていますが耳にはまだ空きがあり、可能性があると思っています」

 

と話しています。

 

 

 

ながらで作業する場合、複数のことに目を奪われるとながらは成立しない。

 

よくマルチタスク能力が必要というが、一つの感覚器官に複数の異なることを処理させることはかなり困難なのだ。

 

しかし、目と耳から別々の情報が入る場合、情報量が多すぎなければ同時に処理できても不思議はないことは経験として皆持っているだろう。

 

 

21世紀に入ってからは、最初はデジカメの普及と高性能化のせいで、その後はスマホの普及と搭載カメラの高性能化で写真や動画に夢中になる人が増えたことは、さらに目の酷使に拍車をかけているようにも感じられる。

 

このように考えていたら、ふと思い出したのが、疲れた目をリラックスさせるために遠くの緑を見ろというのがあったなということだった。

 

最初にこの話を聞いた頃の緑とは、木や森や山の緑のことで、単なる緑ではなかったような気がしてる。

 

おそらくこれは経験から生まれたことが伝えられたのだろうが、色には三原色(赤、青、緑)があり、それらは均等に分布してるはずなのに、なぜことさらに緑が強調されたのだろうかと思って少し調べたら、人間の目の特性として三原色の中の特に緑に対する反応が強いらしいのだ。

 

これはカメラのセンサーを作る際にも応用されていて、ごく一部を除いて緑のセンサーは赤や青のセンサーの2倍が割り当てられているのだ。

 

こうすることで見た目の色に近づけるようにしてるのだ。

 

 

このように考えた時、写真や動画を見るだけだったら目を酷使することにつながってるかもしれないが、撮影する場合、それが屋外ならば、自然と遠くの緑を見てるのと同じ効果を目に与えているのかもしれないと思えたのだ。

 

何かを撮ろうと思い周りを見渡す作業は、モニター越しに何かを見たり本を読むことと違い、意識を集中していても目はリラックスできるのではないだろうかと思えてくる。

 

もし、本当にそうならば外で写真を撮るという行為は、それが風景ならば、目には優しい行為になる。

 

三連休の二日は天気が悪かったが、幸い今日は気持ちよく晴れている(天気予報は良くないので束の間かもしれないが)ので、風景写真でも撮りにこれから出かけたい。

自由化は諸刃の剣!

さまざまな分野で自由化が進んでいる。

 

一般的には、自由化は良いことだとされる。

 

既得権益から解放されることで競争原理に晒されることでサービスが向上すると考えられるからだ。

 

第一のメリットであり最大のメリットが料金が下がること。

 

料金さえ下がれば、その他の要素は向上しなくても構わないと思う人は多いはずだ。

 

自由化の対象になるのは大きな市場があるもの。

 

スーパーや量販店をイメージするのが生活に身近で一番分かりやすい。

 

 

料金が下がった直後には恩恵を感じられるが、慣れるとありがたみは薄れる。

 

 

公共料金というジャンルに括られるものは特に。

 

自由化されてる公共料金というジャンルに属するものには電話や通信が代表格で昔の航空機料金も含めて良いかもしれない、その昔ハワイに行くと飛行機代が100万円と言われる時代があった(らしい)。

 

21世紀に入る頃からビジネスの世界でコスト削減がテーマとしてクローズアップされると、電気代も自由化されたものとして認識されるようになってきた。

 

電気の自由化は、一般的には料金の自由化を意味する。

 

詳しい説明は省くが、電柱や電線を伝わって送られる電気は日本に関する限り、契約先がどこであろうと全て同じ(西と東で60hzと50Hzの違いはあるが)だから、質は全く同じなので、違いは料金だけになる。

 

どれだけ安くなるかというとピンからキリだが、質が全く同じなら1円でも下がれば御の字かもしれない。

 

しかし、自由化とは安くなるだけではないのだ。

 

このことを理解してない人は多いし、頭では理解していても実際には高くなることは起きえないと思い込んでいるかもしれない。

 

 

しかし、

 

 

このお知らせから事態は知れ渡ることになったようだ。

 

日本卸電力取引所(JEPX)電力取引価格高騰に関する重要なお知らせ 2021.01.07

何が「急激な高騰」の原因なのか?

弊社の調査によると、国内発電量の大部分を占めるLNG(液化天然ガス)火力発電所が利用するLNGが複数の理由で不足しており(※)、これを主な要因として市場で販売される電気の絶対量が減少していると思われます。LNGは長期保存が難しく、事前の想定を上回る需要に応えることが難しいとされています。

また、相次ぐ寒波で暖房用電力の需要も急増しています。このように、需給両側面の事由により、急激な価格高騰が続いていると考えています。

 

 

 

なんのことを言ってるか分かりますか?

 

自由化で以前各地域で市場を独占していた大手電力会社がコスト削減のために余剰電力の発電を控えるようになったので、余剰電力を自由化市場に分配していた卸電力取引に回る電力が少なくなっているということなのだ。

 

余剰が少なくなるということは、自由化市場が圧迫されるだけでなく、インフラとしての電力のマージンが小さいということなのでリスクなのだ。

 

 

 

 

 

業界の事情に精通した方の解説によると、

 

 

 

 

この事情通の方のツイートはひとつだけしか紹介してないが、リプで繋がっているのでこの数年の事情を簡単に理解したい方は是非目を通してください。

 

 

わたしは、頭では分かっていたが実際に起こるとは思ってなかったし、上記の事情通の方のリプを見ると2〜3年前にも起きていたとが分かる。

 

 

自由化で競争原理に晒された結果値上がりするものもあるということは覚悟しなければいけないのだ。

結構怖いのが、水が凍るということ!

今回の大雪&大寒波は、物流なども含めると多くの人に影響を及ぼしているだろう。

 

数年前にも寒波が襲来したが、その時に水道管が凍結した。

 

そして、2箇所の蛇口のパッキンが破損し若干の水漏れを起こしたが、水道のパッキンはもしもの時のためにストックをしていたので修理はできるのだが、修理に着手するためには凍結が解除するのを待たなければいけない。

 

この待つ時間は、凍結の程度が目視で判断できないので、蛇口を捻った際の水の出方で判断するしかない。

 

 

さて、今回の寒波でも水道管の凍結を恐れていたので、それなりに準備はしていた。

 

マンションに住んでる方だったら全く気にしてない方も多いだろうが、戸建ては結構シビアなのだ。

 

ちなみに、雪国や北国ではないので、そのような地方に住んでる方からすると、考え方が甘いかもしれない。

 

水道のメーターボックスの空間に、新聞紙を丸めたものを詰め込んで空間を埋めた、見開きで10枚くらい使った。

 

屋外の露出配管(断熱材は巻いている)の周りと給湯器を余っている毛布で覆いビニールを被せるという作業を父親の代からやっている。

 

これで、周りや近所で凍結が発生していても、ほぼ水道管の凍結は防げていた。

 

 

今回同じことをやっていたが、昨日の朝、水道は大丈夫だったが、給湯器に通じる管が凍結していた。

 

ただ完全凍結ではなく、蛇口全開でポタポタとどうにか糸を引くような程度の水が出せる状態だった。

 

この状態で給湯器のスイッチは入れられないので、蛇口開けっぱなしで解凍するしかなかった。

 

外気温が寒いままだとずっと解凍しないかもと心配だった。

 

3時間弱ほったらかしにして、のべで洗面器10杯ほどの水を流した後でいきなり凍結が終了できた。

 

このせいで昨夜は少し緊張感があったが、今朝起きると凍結はしてなかった。

 

ちなみに、Twitterで水道と検索すると、

 

 

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凍結防止策として水を出しっ放しにするというのがあるが、これには少しばかり心理的な抵抗があるのでわたしはついつい避けてしまうのだが、冷え込みが厳しい地ではそんなこと言ってられないだろう。

 

しかし、

 

 

 

 

プロフィールを見ると岩手や宮城での話だと思えるが、ここまでになると、水道の凍結というレベルを越えて水道管の破裂が現実味を帯びてくるのだろう。

 

凍結した道路での車の運転も怖いが、家でおとなしくしてるだけでも恐ろしさは迫ってくるのだ。

 

水が凍るということは、結構怖いのだ!

質的な変化の途上にある『コミュニケーション』!

緊急事態宣言が再度出されたことでテレワークやリモートワークが一層注目されることになる。

 

仕事やビジネスには、テレワークやリモートワークが向くものと向かないものがある。

 

 

 

コンピューターにはメンテナンスのために遠隔の操作を受け付けるような仕組みというかプログラムが搭載されている。

 

だから、起動できて通信が生きていれば、コンピューターに生じた不都合を遠隔で解消するための作業を行うことができる。

 

このような作業ができる人は、コンピューターやシステムに深い造詣が必要になる。

 

このような能力を身に付けた人の中には自分の実力を試したいという思いが、歪んだ形で現れることがある。

 

それが初期のハッカーであり、現在のクラッカー。

 

メンテナンスのための遠隔操作の仕組みを悪用して無断でコンピューターに侵入するのだ。

 

コンピューターの所有者や管理者の同意なく内部に侵入するためにはセキュリティの突破が必要になるが、それが実力試しになるし、ビジネスにすらなっている。

 

 

少し前置きが長くなったが、最近言われるテレワークは上記のパターンとはほど遠いのではと思えるという話をしてみたい。

 

コンピューターのメンテナンスであれ、悪意のある侵入にしろ、対象のコンピューターが現場になる。

 

本来は、人が行って初めて成立するのが現場だが、時代の変化で、人が移動しなくても情報の遣り取りだけで済む場合も増え、そのようなケースは電話やFAXの登場から始まっている。

 

インターネットのおかげで、届けられる情報は量と質の両面で大きく向上しただけでなく、ほぼすべての人が情報の双方向性を手に入れることができるようになったので、場所の制約を受けないという意味ではコミュニケーションのテレワーク化は可能にはなっていた。

 

それでもコロナ前はテレワークは大きく浸透はしなかったということは、人が移動することに意味があったからだろう。

 

移動するというよりも、直接対面で顔を合わせることに意味や価値があったのだ。

 

その場合、中心になるのは情報というよりもコミュニケーションといえるはずだ。

 

対面で会うことに価値が見出せると、会うことが目的化する。

 

昭和の仕事とはそういうものだった。

 

だから、会わなければ始まらないという思いがあるからだろうが、成果を上げることと成果を上げようとしてることの違いが曖昧になりがちだった。

 

時が流れ現代は、成果が大事になり、会うための理由が双方で共有される必要が出てきた。

 

片一方は成果をあげたいが、もう一方はただの暇つぶしというコミュニケーションはだんだん成立しなくなるかもしれない。

 

 

緊急事態宣言や自粛で槍玉に上げられるのが飲食店だが、利用者の目的は飲食以外にある場合も多く、そのような場合は複数で利用すればコミュニケーションだし、一人で利用する場合は一人になることが目的だったりすることが多いはずで、どちらにしても程度の差はあれどもコミュニケーションがテーマなのだ。

 

 

意識することは少ないが、コミュニケーションはことばを介して行われる。

 

時にはボディランゲージなんていうものもあるが、その場合だってことばが無いわけではない。

 

似たような現象に、文字やことば以上に写真や映像の比重が増しているということがあげられそうな気もしてくる。

 

 

 

営業時間の短縮に応じない飲食店も、そんな店に行く客も、報道だけ見てると反体制派に思えるが、違う見方をすると、昔ながらの対面でのコミュニケーションを諦めきれない人達だと見えてくるのだ。

 

 

しかし、ここに来て昔ながらのコミュニケーションに頑なに拘っているのが自民党議員だと明らかになった。

 

 

 

 

おそらくオリンピックもみんなで対面でワイワイやるコミュニケーションイベントだと思っているのかもしれない。

 

 

 

 

このように考えると、コロナはただのキッカケに過ぎず、実際に起きてることはコミュニケーションを巡る葛藤であり争いだと思える。

 

1年前までは無いか、あったとしても潜在的だったものが、ハッキリと顕在化してきたのだ。

 

コミュニケーションという分野に新しい尺度が誕生したとするならば、頑なに対面でのコミュニケーションに拘る人が喫煙者と同じ扱いになるのもそう遠い話ではないかもしれない。

 

素人の時代の始まり!?

専門家やプロが求められる時代になっている。

 

コンテンツを含めたモノづくりに関しては、作り手は徹底的にプロであり専門家であることが求められるのは、消費者よりも知識や経験で上回っていて欲しいという期待があるからだし、その期待はいざという時のトラブル対応などに備えての保険でもあるからだ。

 

しかし、現実には事前にあらゆることを想定して徹底的にテストしていても、それを越えたトラブルが起きるのが使用の現場だ。

 

機械やシステムの設計や開発をした専門家やプロからすると、そんなこと起こるわけがないということが現場では起こるものだ。

 

このようなトラブルが起きた場合、専門家やプロであるという誇りや自負は大抵の場合邪魔にしかならない。

 

このような場合に必要なことは、基本を抑えた上で新鮮な感覚を持った素人(しろうと)の感性だ。

 

起きた現象には必ず理由があるという原点を、常に意識できることだ。

 

 

回りくどい書き方をしたが、現代は素人がバカにされる時代だが、その割には真のプロや専門家がいるわけではない。

 

そんな中途半端なプロや専門家はトラブルシューティングが苦手なので、現場で起きてるトラブルと真摯に向き合わない。

 

そしてそんな姿勢を効率的で生産的だとごまかそうとする。

 

だからこそ、素人的な感性は専門家やプロであること以上に必要とされているのだ。

 

 

 

 

しかし、だからといって専門家に指示を出す立場の人がど素人ではどうしようもないのだ。

 

 

 

 

岡本太郎はこう言っている。

 

 

〜〜以下引用〜〜

 

専門家であろうがなかろうが、体当たりして行きぬくことが人生の極意であるはずだ。

 

本当の人間はみんな透明な眼を持もった猛烈なシロウトなのである。

 

自分の専門に対しても。

 

〜〜引用ここまで〜〜

 

 

 

 

 

一周回って、素人の時代が始まるのかも?

『成人式は老人式』by 岡本太郎

年末に買った本だが結局正月三ヶ日が過ぎてから読み始めてる。

 

 

 

1996年(平成8年)に84歳で亡くなった岡本太郎が昔雑誌等で書いた話が集められている。

 

巻末には出典の紹介もあるので書かれた年代も分かる。

 

ブログのタイトルにした話は、1972年のもの。

 

その当時の成人について書いた話で、『老いない論ー爆発するいのち』のごく一部。

 

引用すると、

 

 

〜〜以下引用〜〜

 

「成人の日」というのがある。

 

20歳になった青年男女を集めて「成人式」が行われる。

 

これから人間として社会に出発するという儀礼だが、

 

私はいつも腹が立つ。

 

今日、20歳の青年なんて、すでにどうしようもないオトナではないか。

 

それぞれ自分の分際を心得て、ちゃっかり計算をたて、世の中に適応したポーズまで身につけた小市民。

 

一目でわかる。

 

 

(中略)

 

 

そういう連中を集めて、また型どおり、お役所のフォーマルな儀式。

 

あんなものに耐えられるということが、すでに青春を失い、ニブくなっている証拠だ。

 

だから、あれは「老人式」だ。

 

「成人の日」ではなく、この日こそ「老人の日」にしたらどうかと皮肉りたくなる。

 

 

〜〜引用ここまで〜〜

 

 

 

1972年にこの話が書かれたということは現在の70歳前後の方達の成人式の様子を見て感じたことなのだ。

 

最近の成人というのは、この人たちの孫世代に当たりそうだ。

 

儀式としてのフォーマルさこそ変化したかもしれないが、この半世紀の成人式を見事に表現してると思える。

 

岡本太郎がまだ生きていたら発狂してるかもしれない。

 

上記の引用の後には次のような表現もある。

 

 

〜〜以下引用〜〜

 

だれでも幼い日は純粋に、無目的に生きて、この人生に素肌でひたとむきあっている。

 

生きるなんてことを頭で考えなくとも、自然にふくれあがって、宇宙と合体している。

 

しかし、他を意識し、諸条件というものを知り、それに順応した瞬間から、それはまず小学校というシステムに入ったとたん、思い知らされるのだが、ほとんどの人間はシボンでしまう。

 

純粋な夢をかき消して、他から決められた基準の方にあわせ、オリてしまう。

 

その時点から老化が始まっているのだ。

 

本当の人間は老いない。

 

 

(中略)

 

 

そして青春が最もひらききった頂点において、生命つき、ドウと倒れる。

 

青春と肉体の破裂。

 

それが私の信念だ。

 

私の「老い論」、実は「青春論」だったようだ。

 

〜〜引用ここまで〜〜

 

 

2021年は密を避けるためということを大義名分にして中止や延期にされる成人式が多いようだが、それに対して『一生に一度の思い出が作れなくてかわいそう』という声が報道されているのを何度も聞かされた。

 

 

少子化はおそらく関係ないのだろう50年前からの傾向なのだから。

 

今の日本は、実際の年齢に関係なく老化が進んでいるのは明らかな気がするし、世間で起きる出来事を見ても老化に起因してると気付くと妙に納得できるような気がしてくる。

 

なんでも悪いことはお金のせいにすることが多いが、老化に関しては気持ちの問題なのだ。

 

 

岡本太郎はおもしろい!