違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

後悔は百害あって一利なし

日本のプロ野球の名選手であり名監督だった故野村克也監督は数々の名言を残している。

 

その中でもわたしが一番好きなのが、

 

勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし

 

この名言にひと際味わい深さを感じたのが水原一平事件だ。

 

今更事件の内容には触れないが、この事件はリスクマネジメントや危機管理のプロの目を掻い潜って起きていた。

 

事件が起きた、事件を起こせたという意味では、全てが発覚するまでの間は水原一平さんにとっては不思議な勝ちが続いていたのだ、勝ちと書いたがそれは掻い潜ってすり抜けたという意味で、肝心なギャンブルでは負けていたのは皮肉だ。

 

一方で、この件で負けたのは大谷翔平さんではないと感じてる、失われた24億円は彼の屋台骨にはなんら影響してないからだ、せいぜいぐっすり眠れば忘れられる程度の疲労だったはず。

 

この件で不思議ではない負けを思い知らされているのは、大谷翔平さんの脇を固めていたはずの危機管理のプロ達だ。

 

プロとしてそれなりの対価を受け取る契約をして請け負った業務を、分かってしまうと極めてお粗末な対応で果たせなかったからだ。

 

もちろん言い訳があるだろうことも理解できる上で、セオリーに対して例外を認めてしまったことが敗因だ。

 

 

こういうことっていまだに全国各地で後を絶たない詐欺被害にも共通してるはず。

 

ごく初期の段階のそんな手口があるなんて知らなかった頃とは違い、さまざまな注意喚起をされてることは知っていて、気をつけなければと思ってるはずなのに、そんな思いをすり抜けて詐欺が続くのだ。

 

負けに不思議の負けなしを経験すると、後悔先に立たずを感じるはず。

 

詐欺被害は想像するだけの擬似体験でも、かなり強いインパクトを感じる人はいるので、なんの被害も受けてないけど被害を受けたかのような意識を持てる人は少なくない。

 

しかし後悔した人の中には、負けるべくして負けたという反省をロンダリングしてるかもしれない。

 

つまり、反省が定着しないのだ。

 

 

後悔は百害あって一利なし。

時間差の美学

デフレが続いた日本でも物価が上昇している。

 

つまり売ってるモノの値段が上がっている。

 

それに引き続いて上場企業や業績好調企業では賃上げや初任給アップが実現され始めた。

 

これだけを活字にして見ると日本にも好景気の波が来てるかに感じられる。

 

しかし、時間が経たないとわからないこともある。

 

皮算用では値段を上げても従来通りに売れるつもりだろうけど、収入や給料が上がるのはごく一部でしかも実質手取りとなると上がった人はどのくらいいるのか、そしていったいいくら上がったのか。

 

 

値段を上げた結果の業績がどのような結果に至るのか、真の評価はそれが分かるまでお預けだ。

 

真の評価には時間差が発生するのだ。

 

 

長年に渡るデフレという経験があったことでコスパの意味もデフレを前提にしたものになってれば、ただ単にコスパが悪いものだらけになる。

 

一方で、それを補って余りある魅力がプラスされようとしている印象はない。

 

どちらも果たしてどうなるかは今の時点では評価できないのだ。

 

わたしには消費者目線でしか見えないが、この事態は投資家目線でも大きな評価の対象になってるはず。

 

投資家は期待に着目するはず。

 

 

期待も希望と同じくパンドラの箱の中に封じ込められていた罪悪の一種なのかもしれない。

 

投資のつもりだったのに実際にやってたことはギャンブルや詐欺だった、そういうことが明るみに出るにはやはり時間差が必要。

 

だからと言って結果が出るまで待っていては投資にならない。

 

投資とギャンブルは紙一重。

 

ギャンブル依存症はあるけど投資依存症とは言われない。

 

このようなことを考えていたらはっきり分かるのは、わたしには投資家のセンスも才能も無いということだ。

ラリーを続けるように

ラリーと聞いて何を思い浮かべるか?

 

おそらく二つに分かれるだろう。

 

  • ラケットスポーツで打ち合いを連続すること

 

  • 自動車レースの一種

 

この二つは原義は同じで集合するあるいは集会するという意味らしい。

 

 

余談だが和製英語のスタンプラリーは自動車レースのイメージから生まれたもの。

 

ラリーは、自動車レースの方をイメージする人には競争のイメージが強いかもしれないが、ラケットスポーツでラリーを楽しむような姿をイメージすると競争のイメージは浮かばない。

 

 

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ビジネスや勉強の分野では順位や序列など偏差値的評価が浸透している。

 

そしてそれはスポーツ界にも及んでいる。

 

 

スポーツで競技志向が高まると体力偏差値を上げることに夢中になる。

 

体力偏差値の向上での差別化がどんぐりの背比べになると、機材(器材)偏差値を上げて差を付けたくなる。

 

これらの変化は競技志向とも言えるしプロ志向とも言えるが、アマチュアやシロウトものめり込む魔力を秘めている。

 

始めた時には楽しかったことが、キャリアを積み重ね実績が増えるほど楽しくなくなる場合の原因に競技志向があることは少なくない。

 

 

キャッチボールより難易度が高いものに卓球バドミントンテニスなどのラケットスポーツでのラリーがある。

 

ラリーが続くことが、あるいは続けることが快感な人は競技志向ではない。

 

競技志向ではない者同士のラリーでは、楽しむための一環として難易度を上げることはあっても、相手が受け取れないあるいは返せないような打ち方はただの興醒めだ。

 

競技志向ではないからといってラリーの継続が低レベルなわけではない。

 

双方共に楽しめるためには一定のバランスポイントが保たれる必要があるからだ、競技志向が強いと相手のバランスポイントを上回ることや、バランスポイントを崩して突破することが目的になるが、どちらにしてもバランスポイントに対する意識が共通点として重要になる、だからラリーの継続は高度なコミュニケーションプレイになる。

 

 

勝った負けたに一喜一憂することに疲れたらラリーの継続のような快感を思い出そう。

 

自分にとって大して難しくないことをずっと同じ気持ちで継続すると、ゆっくりと上達しながらしかし敵やライバルを作るわけでもないという世界観に入っていける。

ついた差を気にするのはもったいない

左脳は思考を、

 

右脳は直感を、

 

司ると言われる。

 

 

人間には左脳派と右脳派がいる、これはどちらが良いとか悪いではなくタイプ。

 

無意識またはリラックスしてる際の傾向くらいのもの。

 

 

簡単なチェック方がある。

 

無意識に指を組むと

親指が上になるのは

右手?左手?

 

無意識に腕組みすると

腕が上になるのは

右腕?左腕?

 

 

わたしはどちらも左。

 

このチェックがおもしろいのは、わたしの場合右を上に組もうとすると指はできないし腕はすごい違和感だらけ。

 

このチェックでの結果は4パターンしかないのだが、その際の印象の違いは4パターンを超えてさまざまあるはず。

 

こんな簡単なチェックですら人間の多様性を表すのだ。

 

しかし、このチェックでの違いは、違うということは認識できても、わたしの場合右が上になる人の感覚を真には理解できない、そのことを痛感するのだ。

 

喜びや悲しみを共感できるようには共感できない感覚なのだ。

 

 

右脳派か左脳派かで、きっと情報の処理にも差が出るだろう。

 

テーマが同じ場合、文字を好むか写真や映像を好むかあるいは別の何かを好んだり、そしてその量にも個性レベルのタイプの違いが生じるはず。

 

文字の場合だけでも、書かれたものもあれば音声もあるし意味は同じでも表現はさまざまある。

 

接してる情報がそもそも同じではないだろうが、仮に同じだとしてもその伝わり方や受け取り方さらにその理解に違いがあるとすれば、結果的に違う情報として伝わることになる。

 

 

情報を得てる人と得てない人の間に差が生まれるのは当然だが、情報を得ていても伝わり方や受け取り方によっても差がつく、さらにそこから先の理解力にも差がつけば応用にも差がつく。

 

これに加えて運が良いとか悪いという差も生じ得る。

 

つまり、同じように生きているはずだがどんどん差がつくのだ。

 

しかし、その結果が幸せか不幸かはついた差だけでは説明不可能。

 

だからおもしろいのだ。

自分を解放できるのは自分だけ

人間の悩みの99%は人間関係に起因すると言われる。

 

悩みがお金に関することや自身の健康に関することであっても、誰かに迷惑や心配を掛けるから悩みになってるというケースは少なくない。

 

法律やルールに従うのも突き詰めると人間関係の束縛ゆえということは少なくない。

 

ほぼ全ての人間は生きてる限りその濃密さに違いはあっても人間関係に雁字搦めなはずだ。

 

その雁字搦めさが愛と優しさに溢れている人は幸せだ。

 

そんな雁字搦めの人間関係を抱えていても、いや抱えているからこそだろうか、現代は孤独や孤立で悩む人がいる。

 

孤独や孤立、辞書的な定義はさて置き、人間関係の束縛と無縁でいられるはずなのに、これはこれで寂しいと悩む人も少なくない。

 

人間関係は、あればあるなりに無ければ無いなりに悩むのが人間だ。

 

遊びや趣味は自分一人でペースが作れて、自分一人でも楽しめることが良い。

 

その遊びや趣味が適度に体力を必要とするものならばなお良い。

 

どの程度が適当なのかは、それこそ自分一人の都合で決めれば良い。

 

大事なことは、自分で決めた自分にとっての適当が自分を束縛するものになってはいけない、せいぜい目標や目的の程度に留まることが肝心だ。

 

これができれば、そういう何かが持てれば、別で背負った束縛を緩めることができるはず。

良い指導者

昔から指導に関して言われてることがある。

 

 

良い選手が良い指導者になるとは限らない。

 

勉強のできる人が良い先生になるとは限らない。

 

 

どちらも意味は同じで、自分に関してしか当てはまらない理論や理屈しか持ってないのだ。

 

もちろん教えるのが下手にしか見えない場合が多いだろうし、性格が悪いと見える場合も少なくないだろうが、強いていうなら自分にできることをできないという他人の状況に対する理解が欠落しているからで悪気や悪意はないのだ。

 

昨日から『人間のタイプ』について考えている。

 

多くの人にとっては『自分のタイプ』だけが重要だが、指導者(上司なども含む)になると自分が受け持つ人のタイプを見分け理解する必要があるが、人間にタイプがあるとはそもそも思ってない指導者も多いはず。

 

自分(=指導者)に当てはまる理論や理屈が当てはまらない人に対して、違うタイプの人だという理解ができないので、単に物覚えが悪い、要領が悪い、運動神経が悪いと判断するのだ。

 

もちろん教えられてる側や部下からは偏った指導者や上司と思われるのでお互い様だが、ある意味不幸の連鎖だ。

 

どんな分野にも優秀な指導者がいる、そういう人は経験を通じて独自の理論を体系づけることができる、努力によって身に付けた術というよりも、独自のセンサーやアンテナを持ってればこそだろう。

 

 

良い指導者の役割は本が担うこともできる。

 

 

この本を読んで強く思う。

 

 

 

自分探しは永遠

病名が同じ人に同じ治療や投薬をしても治り方に差が出るのは不思議ではないし、中には一向に回復しない人すらいるかもしれない。

 

病人ではなく、健康でかつやる気がある人に同じトレーニングメニューを与え、同じ食事を提供したとしても体力の向上や身体の発達も同じにはならない。

 

なぜかは分からなくてもそれなりに生きていれば経験から理解できるようになる、多くの場合遺伝子の違いで納得するが。

 

 

間近でマラソンの女子の国際大会を見たことがある。

 

折り返し地点の少し手前で見ていたので先頭集団から後続選手まで続々と走ってきて折り返して行く姿を延々と見たことがある。

 

テレビで見てるとあまり気付かないが走る姿(ランニングフォーム)は皆違う。

 

中には上位で走っているのにおそらく身体の中心軸が歪んでいるような人もいる、きっと長年に渡って走り過ぎたからだろうと思ったが速いのだ。

 

抽象論として人間は一人一人違うというのは誰もが理解できるが、それを言ったら理解はそれ以上進まなくなる。

 

だからもう少し分かりやすく分類を試みる人は多い。

 

そしてさまざまな説が提唱されてきたし、これからも続くだろう。

 

自分に当てはまると思える説に出会えるのはラッキーだ。

 

自分一人で考えていてもよく分からないから。

 

 

自分は分類上どこに位置してるのか、この場合の分類とは序列や順位で定義される種類のものではない。

 

タイプとでも呼んだ方が相応しいかもしれない。

 

自分が理解する自分というタイプと、集団の中にいるからこそ見える自分というタイプ、この二つが一致に近い方が楽に生きれるとは限らないが、少なくとも自分のタイプは複数存在し得る。

 

ここで重要なのは右利きなのか左利きなのかのようなタイプの違いだ。

 

目指してるとか理想だとかは関係なく、否応なく身に付けてしまったタイプだ。

 

この場合のタイプには持ってる価値観や美学が影響を及ぼす余地はあるが、あまり大きくは動かないはず。

 

 

このように考えると自分探しは永遠だなと思えてくる。