家の本棚を整理して、要らない本を断捨離しようと思っていると、買ったことすら覚えていない本がなんとたくさんあることかと驚くほどだった。
その中で捨てようかどうしようかと思いながら読み返すと、意外に面白い本があったので紹介。
1996年に出版された秋元康の『秋元康のスーパービジネスマン講座』という本。
アマゾンで見ると妙なプレミアムが付いているようだ。
この本の中に書かれていることで面白いなと思ったのが、1996年の頃の若者を「ウーロン茶世代」と称していることだ。
この中では、若者をきちんと定義せずに漠然と表現されているだけなので、若者の解釈は読む人に委ねられているのだろうが、おそらく今(1996年頃)の若者はという意味で書いたものだったはずだ。
検索すると、2014年にAERAの記事でもウーロン茶世代は話題にされていた。
いい記事です。"@momoclotv: 〔アイドルニュース〕秋元康氏が指摘する「ウーロン茶世代」とは http://t.co/pasO1razJB 僕も8年前にAKB48を立ち上げたときは「秋葉原でアイドルなんて絶対ムリだ」と言われた。だが、不思議とムリという言葉が面白く感じた。
— 髙田亮太(放送作家) (@RyotaTakada) January 6, 2014
2014年の記事ではウーロン茶世代は、次のように表現されていた。
僕はそうした世代を「ウーロン茶世代」と呼んでいる。飲みに行っても、カラオケでも「とりあえずウーロン茶」。何か飲みたいものがあるわけでもない。ウーロン茶を飲みたいわけでもない。何が飲みたいのかわからないときに頼むウーロン茶。普通に無難に暮らせていればいい、という思考がはびこっている。
個が閉鎖している、と思う。集団や組織、仲間の中にいれば、見栄を張りたい。でも、いまは社会全体が引きこもっている。日本の外に、部屋の外に、もっと面白いことがあるということに気づかない。
約20年経過しても日本の若者のイメージが変化してないということは、一過性では無い定番化した特徴と言えるのかもしれない。
では、1996年のウーロン茶世代はどのように表現されていたかというと、次のようなものだった。
「とりあえずウーロン茶」という象徴的な表現は共通だが、具体的な事例として上がっていたのが、ドラマだと「愛してるといってくれ」や「ピュア」や「古畑任三郎」のようにコンセプトがはっきりしていて、分かりやすい『見出し』がついてるものに人気が集まり、これはヒット曲にも共通していて、みんなの話題になったり売れてるものに人気が集中するという法則がある、と書かれている。
ウーロン茶世代には反発精神や反骨精神が無い、とも書かれている。
つまり、決め手になるのは『見出し』だと書かれている。
SNSやスマホは言うまでもなく、インターネットですら普及する前から、SNS的な要素が時代を覆っていたことが感じられる。
バブル崩壊後の失われた30年と言われてるが、実際には『見出しに一喜一憂する30年』だったと言った方が相応しいのかもしれない。
わたしは、反発心や反骨精神を持ってると思っている世代だが、この辺の気持ちの使い分けが世代を分けるボーダーラインなのかもしれない。
ウーロン茶世代と反発反骨世代は現在は勢力図的には、拮抗しながらもまだ反発反骨の力もあるが、徐々にウーロン茶世代が主導するのは間違いないだろう。
反発反骨世代は、ウーロン茶世代の価値観を理解できないと、生き辛くなるかもしれない!