違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

森喜朗氏に感じる『神輿は軽くてパーが良い』という日本流ガラパゴス

時事ネタに興味や関心がある社会派の人で、ブログを書いてる方であれば、昨日から森喜朗氏について何か書いてみたいとウズウズしてるはずだ。

 

この想いは、私にとってはデジャブのようで、2016年3月に発覚した乙武洋匡さんの5股不倫の発覚と二つの点で被るのだ。

 

内容が全く違うのにどう被るのかというと、正義や正論を振りかざせば誰でも何かしら言えそうだという点であることが一つ。

 

もう一つは、私は2016年の8月からブログを始めたが、その前に練習として乙武さんの事件に関してどのような切り口で捉えることができるかという練習を何度もしていたのだが、書くにあたっての気持ちが被るのだ。。

 

ワイドショーや週刊誌だけでなく、さまざまなブログでも取り上げられ多様な切り口で話題にされていた乙武さんだが、自分だったらどういう切り口で迫ることができるだろうかと練習していたのだが、何度書いても、どのように切り取ろうとしても、すでに世の誰かが書いてる話の劣化版みたいなものしか書けなかったことを今でも覚えている。

 

だから自分にはブログなんて無理だと思い、始めるまでに時間がかかってしまった。

 

 

さて、森喜朗氏に話を戻すと、今の私だとどういう点で切り取るのだろうかと取り組んでみた。(書きながら自分でもまだ定まっていない)

 

 

昨日の夕方以降、いろいろな報道番組やネットやTwitterなどで世間の様子をチェックしたが、私のチェックの範囲では擁護の声はひとつもなかったように感じられた。

 

乙武さんの時と同じだ。

 

乙武さんの時と森喜朗さんの場合の最大の違いは、乙武さんは世間からそんな人だとは全く思われてなかった真実が明らかになったことでの反動や反発だったのに対して、森喜朗さんの場合は、誰もがそんな人だと分かりきってることが予定調和の如く披露されたに過ぎないという点だ。

 

乙武さんの件が発覚した時、世間はそんな人だとは思わなかったと驚愕したが、乙武さんの身近な人は皆そんな人だと知っていたことも伝えられた。

 

そりゃあそうだろう。

 

乙武さんが隠れてこそこそ行動するなんて不可能なのだから、5股不倫は周りの協力がなければ成立するのは不可能なのだから、だからと言って周りの人が共犯者だとは思わない、強いていうなら空気のせいだろう。

 

 

もしかしたら、森喜朗さんの場合も悪いのは空気のせいなのか?

 

 

ところで、以前から森喜朗さんはなぜそんなに権力を持っているのかが不思議だった、どう考えても人望はなさそうなのに。

 

いろいろ検索すると、森喜朗さんには人たらしの才能がありそうにも見えてくる、人望がないように感じるのは遠くから見てるだけだからかもしれない。

 

世間からは「サメの脳みそ、ノミの心臓」と揶揄される人物像だが、直接知る人の印象だとその真逆のイメージを与えることも多いらしい。

 

具体的な事例は検索すると出るので触れないが、人たらしの才能を開花させた原点が早稲田大学時代の雄弁会だという指摘もあるし、人脈が豊富なことの背景には取った行動がタイミング的にたまたまタイムリーだったという偶然を味方につける運の良さも持っていたようだ。

 

政治的な権力をいまだに持っている背景にはロシアのプーチンさんのハートをガッチリ掴んでることも関係してるかもしれない。

 

結果的に、人の上に立つ人物としてのし上がるのだが、上に立つ人物として評価されたというよりも、人の懐に入ることが上手な人だったと言えそうだ。

 

そして、いろいろな分野のキーマンの懐に入ることで重宝される人物として使い勝手が際立ったのだろうと想像できる。

 

 

ところで、あまりにも多くの人の懐に入ってしまうと、全部の懐を温めることは難しいかもしれない。

 

競合関係にある懐同士も出てくるだろう。

 

そんな時にどうすれば良いか?

 

正しく判断しようとすると、両立できずに対立を招く場合にどうするかだ。

 

 

このように考えていると、森喜朗さんの話をしてるつもりなのに日本の話になってしまうような気がする。

 

 

たぶん、ここから先の判断や行動で日本は世界から遅れているのだ。

 

政治の政はまつりごととも読み、祭りごとに通じる。

 

日本の政治が世界の政治とズレるのはこのせいかもしれない。

 

企業だって組織だって運営は政治そのもの。

 

日本では、これらは一種の祭りなのかもしれない。

 

祭りといえばお神輿。

 

お神輿の上に乗ってるのは総理大臣や社長や会長をはじめとするトップ陣なのだ。

 

いつどこで最初に聞いたのか覚えてないが有名な言葉に、

 

神輿は軽くてパーが良い

 

というのがある。

 

調べてみると、田中角栄に行き着くようだ。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/ノート%3A海部俊樹#担ぐ御輿は軽くてパーがいい

中曽根擁立に際して田中派幹部某が「なんであんなボロ神輿を担ぐんだ」と疑義を呈したところ、田中が「ボロ神輿だからこそ担ぐんだ」と説得したというのが事実であると記憶しています。幹部某は金丸だったか後藤田だったか。

 

 

由来は1980年台の前半にありそうで、その頃から日本では神輿がパーになり始めていたのかもしれない。

 

 

そういう目で日本の政治界を見渡すと、パーがたくさんいることが分かる。

 

ただ世間の空気は決してパーを良しとしてるとは感じられない。

 

むしろ、パーが排除されないように必死で足掻いているように感じられる。

 

軍配はどっちに上がるのだろうか?

 

 

美しい国は、パーの国から抜け出せるのか?