意識高いという状態は、揶揄気味に取り上げられることが多いが、もちろん悪いことであろうはずがない。
ふと気付いたことに、意識高いと自然と目が肥えるなということがある。
意識高いということは、その分野やテーマに対して並々ならない関心や興味があるからで、アンテナやレーダーを広くまたは深く張るようになるので、結果的に主義主張などの一家言を持つようになり、自然と目が肥えるのだ。
できるようになりたいと望みながらも、できるようになるとは限らないが、できるとはどういう状態なのかには精通するようになる、独りよがりや偏見は大きくても。
目が肥えると、ちょっと前まで許容範囲だったものに満足できなくなる。
自分でも自分の反応に戸惑うかもしれない。
目が肥えると、良いモノの良さが分かるようになり、ダメなモノのダメさが分かるようになる。
そうなると、ダメなものではどうやっても満足できなくなる。
ちょっと前までは良いと思っていたものがダメにしか思えなくなる。
そうなると、ある現実に直面する。
良いものにはコストがかかる、それも往々にして自分の許容範囲を越えて。
この残酷な現実に立ち向かうためには、両極端な頑張りが必要になる。
コストをなんとかしようとする頑張りと、コストをかける以外の解決への頑張りの模索だ。
いやどちらにしても、活路を見出せた人は頑張ったという意識はないかもしれない、むしろ試行錯誤を楽しんだと思っているだろう。
注目したいのはコストをかけない対処だ。
往々にして、見出した活路とは壮大なものやイノベーションなどではなく、どちらかというとコロンブスの卵的な屁理屈に近いものかもしれない。
しかし、それは間違いなく自分のテーマであり自分だけのテーマになるはず。
全ての始まりは、望まないのに目が肥えることからだ。