違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

出来ることと出来ないこと

哲学的な気持ちにさせてくれるツイートがあった。

 

 

 

好きなものを嫌いになれと求められても簡単には出来ない。

 

同様に、

 

嫌いなものを好きになれと求められても簡単ではない。

 

頑張れば出来るはずと求められることは多いが、そもそもどのように頑張れば良いのかわからないということも多い。

 

太ってる人が痩せることや、痩せてる人が太ることは頑張りやすいが、背が低い人が高くなりたいと望むことや、背が高過ぎて悩んでる人がもう少し低くなりたいと望んでも普通は頑張りようがない。

 

頑張りようが簡単ではないことで悩むというのは、属してる環境や人間関係から生まれることが多い。

 

 

そのような場合は、環境や人間関係を変えることが正解になる。

 

 

その程度の、分かりやすいことがテーマであればそもそも悩まないかもしれない、敵は自分の身近にいるがあくまでも外側だから。

 

 

しかし、敵が自分の内側にいたら敵と自分を切り離すのは容易ではない。

 

他人と比べてるから悩んでるようで、実際には自分の理想と現実の自分とのギャップで悩んでることも多い。

 

 

容姿に関する美や美容に関することはもっとデリケートで悩ましさの奥が深い。

 

年齢を重ねると老いを実感することが増える。

 

そうすると若さに執着する。

 

意識の中では執着してるのは健康のつもりだったりするが、それが少しズレると若さへの執着というコンプレックスになる。

 

執着というよりも、失ったものへの未練かもしれない。

 

 

子供が成長する時、成長と共に出来なかったことがどんどん出来るようになる。

 

得意を伸ばし、苦手を克服するように。

 

最初の比較の対象はあくまでも自分自身なのだが、成長と共にいつしか他人と比較することばかりになる。

 

常に比較する相手を見つけては一喜一憂を繰り返すことばかりになる。

 

そういう生活を繰り返していると、うっかり見落とすのが、そんな自分も比較の対象にされてるかもしれないということをだ。

 

比較の対象にされるということは、ライバルにされるということで、それなりに評価されてるという証なのだが、そんなふうには捉えずに、嫌な奴に絡まれてるなと思いがちになる。

 

 

比較したり、比較されたりは、どこまで行けば終着点が見えるのだろうか?

 

 

出来ることは、自分にとって当たり前だからなんのありがたみもない。

 

でも、それが出来ない人からするととても羨ましいはず。

 

自由に歩ける、ただそれだけのことが簡単ではない人すらいるのだから。

 

自由に歩ける能力のありがたみに気付いて、失っては大変だからと鍵付きの金庫にしまって保管できるわけではない。

 

もし、出来ることがあって、その大切さを十分に認識でき大切にしたいならば、その能力を発揮し続けるしかないのだ。

 

そんな能力はあれもこれもといっぱいあるわけではない。

 

年齢を重ねるほどに少なくなっていくものだ。

 

 

出来ることを当たり前だと考えず、そのありがたさに気付こう。

 

 

その能力を発揮し続けられることは、きっと楽しいはずだから。

 

 

しかし、注意点もある。

 

能力の発揮と考えた場合の強敵は競争心で、これまた比較意識が作り上げるものだということは忘れてはいけない。