写真と動画の違いをぼんやりと考えていた。
動画と比較するのだから写真と呼ぶよりも静止画と呼ぶべきだろう。
静止画は一瞬を封じ込めるようなイメージがあるが、シャッタースピードの設定で一瞬とは言い難い時間の流れを平面の写真に表現することもできる、そのような場合静止画であっても動きが表現される。
いつの頃からか圧倒的に動画に世の趨勢は傾いている。
それは情報量が違い過ぎるからでもある。
それ以外にも伝わりやすさや分かりやすさも動画の方が有利だと言われる。
静止画に有利さはないのだろうか、それもとびきりの奴が?
そう思いながらあれこれ考えていると、やがてうつらうつらし始め、眠りに落ちそうになる寸前に閃いた。
そうだ、静止画は印刷・プリントできるが動画は印刷できない。
動画はいつでもスクリーン越しであり、ディスプレイ越しなのだ。
動画は三次元では存在できないのだ。(今のところ)
一方の静止画だって、私を含めて大半の人が自分が撮った静止画をディスプレイ越しにしか見てないだろう。
カメラがデジタル化される前は、写真は印刷やプリントされ楽しまれていた、というよりもそうしなければ楽しめなかった。
印刷されようがプリントされようが所詮二次元の平面の表現のはずなのに、印刷されプリントされた静止画には立体としての主張が出てくる。
時間の経過で色も変化し褪せていく。
立体とは言い難いが、物理的に存在することに伴う質感とでも呼ぶべきだろうか。
写真とよく似た存在に絵画がある。
特に油絵の場合、インクや絵の具の盛り上がりが実際に立体を形成するので平面とは一線を画すことになるのかもしれない。
そんな油絵をディスプレイ越しに見ることは鑑賞法としてはどうなのだろうか。
このようなジレンマにも似た思いを立体と関わってる方だったらもっと切実に感じているはずだ。
そう思い検索してみた。
電子機器を介してしか見ることができず、存在を確認することもできない彫刻があるとして、そんなものは実在する彫刻とは言えないと主張する人がいるかもしれない。では、一度も実物を見たことがなく、写真でしか見たことがない彫刻は、どうか。それが確かに実在する彫刻だと主張できるのはなぜか。
— 小田原のどか┊『近代を彫刻/超克する』10月29日発売 (@odawaranodoka) 2021年10月23日
結局のところ、彫刻の歴史とは彫刻を写した写真の歴史でしかないのかもしれず、それでも人は、ルーブルのダビデやバチカンのラオコーンや数十年待たないと開帳されない秘仏を、一度も実見したことがなくとも確かに存在すると信じている。そのような信頼性と真正性をNFTに提供できるのかが知りたい。
— 小田原のどか┊『近代を彫刻/超克する』10月29日発売 (@odawaranodoka) 2021年10月23日
AR、VR、3D、などあらゆる技術を駆使してデジタルは平面上に立体を再現しようと試みている。
デジタルネイティブ世代の作家
— Yutaka (アート好きな人) (@Yutaka_arrrt) 2021年3月14日
ジョナサン・チャプリー
「ディスプレイ上で3Dシミュレーションしたイメージを絵画として描く独自の手法で作品を制作」
立体的で、温かみのある色合いだなぁ。https://t.co/Q6pSXiyixg pic.twitter.com/hTu1nRor77
当たり前のことなのに、あえて考えなければ気付きにくいのだ、デジタル上の表現行為はディスプレイが舞台だということに。
プロジェクションマッピングは、ディスプレイからの束縛を逃れようとしてるのだろうが、一時期盛り上がったが飽きられたように感じられる、どう見ても完成度が低過ぎるのだ。
良し悪しや好き嫌いは別にして、紙の本と電子書籍の違いも同様だ。
これらは、立体と平面の闘いというよりも葛藤と呼ぶべきだろう。