『関係者の理解なしにはいかなる処分も行なわない』という約束は明日にも破られる。
東京電力福島第一原発にたまる処理水を薄めて海に放出するという件に関してだ。
日本政治は福島を消耗品と決めたのだ。
全然関係ない話だが、今年の猛暑に加えて降水量が激減した地域では農作物の不作が報道で伝えられることが増えた。
これらはすべての日本人に関係するようでいても、反応は当事者と傍観者に分かれる。
当事者にはその地域に住んでるだけという人も含まれる。
自分が影響を受けると思えれば当事者意識が芽生えるが、そうでなければ芽生えるのは傍観者意識だ。
そのことを良いとか悪いなどと言いたいわけではなく、そうなるのが必然だとすると、その背景には何があるのかを考えたくなった。
こんなことを考えたくなったのは次のような話を聞いたことも関係している。
世界で所得のトップに位置する富裕層の最近の最大の関心事は、今後どうやって儲けるかなどではなく、地球温暖化など環境の激変が進む地球上でどこで生活するのが最も穏やかで安定するのかを知りたいということらしい。
例としては、ニュージーランドやアラスカなどが挙がっている。
そしてその延長線上には宇宙もあるのだ。
もちろんその有力な候補地の中の良い場所を広大に買い占めるのは当然だ。
日本でも海外富裕層の買い占めが目立つ地域(例えば北海道のスキーリゾート)にも同じ価値観が透けて見えるのかもしれない、かなりスケールの小さな話にはなるだろうが。
不都合や不作を負に捉えるのは当事者意識のせいだ。
傍観者意識だと、別のものを調達すれば良いだけだと気持ちを簡単に切り替えられる。
もちろん切り替えが簡単ではない場合も少なくないだろうし、コストの増大だって招くだろう、しかし選択肢はあるのだ。
選択肢がある限りどうにかなる。
その選択肢への思い入れが重要だと感じる人は選択肢が増えづらいはず、一方思い入れが必要じゃなければ何でも構わないとなる。
箇条書きした条件の多くが満たされさえすれば良いだけ。
程度や質の違いはあっても、同じことは富裕層ではない層でも起きているはず。
SNSなどを見てるとこだわりや自意識の高さをアピールする話は多く、その手の話には大きなリアクションも付いて回るが、実際には思い入れもこだわりはもはや持ってないという人の方がメジャーなのかもしれない。
何事に関しても選択肢を多く持つということはリスクヘッジとして有効だ。
副業なんていうのもその一つだ。
選択肢が多いということは、価値観の許容範囲が広がるということを意味する。
それはこだわりを薄めることでもある。
こだわりは薄まってるのだがこだわりがあるように見せたいのに都合よく使われた表現が『No. 1よりオンリーワン』だった。
そしてオンリーワンでは説明が付かない場合の言い訳として急浮上したのがコスパ(コストパフォーマンス)だ。
コスパの次はタイパ(タイムパフォーマンス)と続いていて、続編もありそうだ。
オンリーワンやコスパやタイパが言い訳として独り歩きするようになることで起きたのが、こだわりなんて関係ないというすべてのものの消耗品化なのかもしれない。
消耗品化するものが増えれば増えるほど、当事者意識よりも傍観者意識の方が強くなることを避けられない。
気持ちのどこかでは人間関係は価値観やこだわりの一致で結びつきたいなどと思っていても、もっと即物的で消耗品的なものになっているのだ。
全てのものだけでなく人すら消耗品になるのだ。
すでに世間では従来の理屈では説明が付きづらい事件を起こす人が後を絶たない。
今後ますます心理学や脳科学では説明できないような行動を取る人が増えるだろう。