『へえ〜』と思う話を読んだ。
この場合の『へえ〜』は肯定の意味。
糖尿病になる人は物欲が強いという話。
物欲が強い人が必ず糖尿病になるという話ではない。
成人病と呼ばれる病気は、基本は食べ過ぎや運動不足によって起きる。
人間の身に起きることに因果関係を求めるのは合理的に思えるが、それがすべてではないことは多くの人が経験で知っているだろう。
同じことをやったからと言って結果が同じわけではないなんて当たり前だと知っている。
だからこそ直接は関係なさそうなことが本当は絡んでいると聞かされると、もしかしたらそうかもしれないと思いやすい。
そんな時はほぼ確実に、自分の知識や経験を総動員してその関係性が成立するようなストーリーを脳内で組み立てるはず。
きっかけは外部からの入力であっても、ストーリーとして脳内から出力される時には、限りなく自分のオリジナルになる。
その後の経験や体験を通じてそのストーリーを完全否定できるような事実や概念と出会えなければそのストーリーは脳内に残り続けるだろう。
大災害の現場ではトリアージという命の選別が容赦なく行われる。
リソースに限りがあるからだ。
他人事としては合理的この上ないが、自分事あるいは自分の大切な人がその選別で切り捨てられることを想像すると、きっと無限のストーリーができるはず。
犯罪者やテロリストの道を歩む者のストーリーには、切り捨てられたという体験が根底にあるかもしれない。
法治国家の法律がそもそも間違っているというストーリーなんていくらでも成り立つだろう。
日本人に多いのが事なかれ主義。
事なかれ主義で生きる人の脳内では、事なかれ主義が最も合理的だというストーリーができあがっている。
それは良いことでも悪いことでもない。
そうしないとトリアージで切り捨てられると思い込んでるからだ。
2024年は初詣で大吉を引いたであろう多数の人の身に不幸が及ぶという幕開けで始まり現在も進行形だ。
きっと当事者の脳内でも傍観者の脳内でもさまざまなストーリーが渦巻いていることだろう。
生きてる限り脳内ではストーリーが作られ続けることは避けられない。
だったら生きやすいストーリーを作ることに慣れる必要がある。
これも訓練であり修行だ。
始めないことには始まらない。