体調が悪い程度だったら病院には行かない人は多いかもしれないが、その体調の悪さが休息程度では回復しなければ、自分の手には負えない気がし病院に行こうと思うようになる。
そんな時頭の片隅にはきっとこんな疑問があるはず。
病院(医者)はどうやって選べば良いだろうかと。
自分の手には負えないから任せたいと思うような場合、任せる相手は誰でも良いわけではない。
今だったら検索という手もあるが、無いよりマシという程度だろう。
口コミという手もあるが、これも無いよりはマシという程度。
何よりも大前提として、医者には名医からヤブ医者まで幅広く分布してることは多くの人が知っている。
そんな中での病院選びや医者選びは宝くじを選ぶような運任せに近い、ただ宝くじほど当たる確率は低くはないだろうが。
病院や医者を例にあげたが、その他アドバイスや解決を求めたくなるようなすべての悩みに共通する課題のはず。
世の中には、やって良かったと思える判断もあれば、あの時余計なことしなければ良かったという判断もある。
どちらであっても結果オーライならば、失敗も教訓になるが、後悔先に立たずだと辛い。
このように考える時、自分や未来を託すに値する信用や信頼を人はどのように判断してるのだろうか?
有名だから、実績があるから、これらはすべて過去の評価であり、本来は未来に向かってのものではない。
溺れる者藁をも掴む、ここまで追い込まれての判断であれば気持ちはまな板の上の鯉なので、おそらく何が起きようとノークレームという意味では無用なトラブルは起きないかもしれない。
ここで考えたいのは、あくまでも悩みを持ってる側にとって最良の判断とは、について。
つまり、悩みを解決することが目的である以上、悩みになる前段階におそらく発生してるであろう予兆はどうやったら察知できるのかが大事になる。
予兆はどうやったら察知できるかは別にして、予兆が察知できそれに対処できるような場合、結果悩みにならずに済んでしまうと、実は当人にとっても何の感動も感慨も無いだろう。
周りの人からは心配性の臆病者のように見られるかもしれない。
そのような対処は危機回避やリスクマネジメントのお手本であるとともに、最も重要なことは自分にアドバイスをしたのは自分自身だったという点だ。
アドバイスは外から受けるものだと思い込んでる人は多いが、本当に有効な究極のアドバイスは自分の内側からしか出てこないのだ。
自分で自分にアドバイスできるようになるためには様々な知識や経験が必要になる。
南海トラフ大地震や次の関東大震災に関して、いかに予兆を掴むかに関心を寄せてる人は多いはずだが、来ることがわかってる以上すでに予兆は発されているのだ。
予兆はこれから起きるのではなくすでに起きている、だとすれば本気で心配な人はすでに何らかの対処を行なっていなければいけないのだ。
ただ実際にはまだまだ大丈夫と思ってる人がほぼすべて、だから歴史は繰り返すのだ。