違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

情報の守備範囲

大阪万博、知名度はそれなりに高く2025年に開催されるらしいが、誰も楽しみにしてないし、聞こえる話題は『また費用が上がるらしいよ』というものばかりで、本当は開催されないのかもしれないと思ってる人も多いことだろう。

 

大阪万博をその程度にしか理解できないわたしに、なんか似てるなと思えるツイートが流れてきた。

 

 

 

 

このツイートを掘り下げることはしないが、リプライは面白い。

 

 

 

何をやってるのか分からない、あるいは胡散臭いなぁと思われながらも知名度は高いサービスや企業というのは時々出現する。

 

最近のヒット曲なんてアーティストの名前を聞いても曲名を聞いても、場合によっては曲自体を聞いてもまったくピンと来ないものは少なくない。

 

 

単に歳を取ってるからとかジェネレーションギャップのせいにするだけではおもしろくないから別の理屈を考えてみた。

 

 

世の中に出回ってる情報の総量が大き過ぎるのではということが先ず最初に浮かんだ。

 

それと同時に野球の守備を無意識に思い浮かべていた。

 

どのポジションで守るにしても、打球に追いつければ捕球できる。

 

追いつけるのに捕球できない場合は、自分の技量に対して打球が早過ぎるあるいは強過ぎる、またはイレギュラーな予想外の動きをしたなどが思い浮かぶ。

 

この場合の技量にはたまたまその時の体調なども含まれる。

 

 

情報とは、飛んでくる打球のようなもので、時にはバントや打ち損じのように飛んでこない場合もある。

 

当たり前のことだが、ボールが見えなければそれに反応しての行動は取れない。

 

この当たり前は、現実社会を舞台にしてる場合見過ごされがちだ。

 

野球の場合は、飛んでくる打球は一つだが、現実世界の情報は同時に複数どころか多数のものが縦横無尽にスピードもバラバラに飛び交っている。

 

いったいどのボール(情報)をキャッチすれば良いのか?

 

そもそもキャッチしたいボールはどれなのか?

 

 

その前に飛んでるボールは見えてるのか?

 

 

取りたいボールばかりではないはずだし、取らなきゃ良さに気づけないボールだってあるだろう、中には取ってはいけないボールだってあるはず。

 

自分めがけて飛んで来るボールだってあるはず、それをキャッチできないと何が起きるのか?

 

損をする場合もあれば怪我をする場合もあるだろう、つまりボールを情報に見立てた場合、避けたりスルーしなければいけないボールだってあるのだ。

 

 

誰にだって興味や関心の守備範囲があるだろう。

 

全方位にアンテナを張ってるようでも、捉えられるのは自分の守備範囲に限られる。

 

野球ならば守備範囲を広げるという選択肢が可能だ、打球は一つだから。

 

現実社会で守備範囲を広げることは得なのか損なのか。

 

守備範囲を広げてキャッチした情報があったと言うことは、本来の守備範囲に飛んで来ていた情報を見逃していたかもしれない。

 

 

現実社会での自分の立ち位置や守備範囲を意識するということは口で言うほど簡単なことではない。

 

 

自分には無限の可能性がある、誰だって一度や二度は思ったことがあるだろう。

 

無限が好きな人は守備範囲なんて意識しないし、したくないはず。

 

スペシャリストかゼネラリストかという話にも似てるが、ちょっと違う。

 

キャリアを積んだかどうかよりも、好きが積み重なってるかどうかが大事なのだ。

 

問われる守備範囲とは、好きをベースにした興味や関心の守備範囲だ。