いつの時代も1日は24時間。
灯りがない時代では睡眠時間が長かったことだろう。
夜は夜で活動できるようになると睡眠時間を削って活動したいと願っても、生き物には休息が必要なので削るにも自ずと限界はある。
昭和(後半)平成令和と続く3時代と明治(後半)大正昭和と続いた3時代は、歴史に詳しくなくてもかなり違ってると感じる。
テクノロジーはもちろんのこと、人間関係や自然の有り様も。
つまり、人間だけでなく動物も昆虫も植物だって、ありとあらゆる生き物がDNAレベルでは『こんなはずじゃなかった』と思ってそう。
こんなはずじゃなかったと思う時にどのような行動を取るか?
山に餌が無くなれば熊は人里に下りて来る。
何となく成立していた境界線というタブーはいとも容易く突破される。
こんなはずじゃなかったという火種はあちこちにあるはずだが、燃えるまで気付かない、いや気付いていても放置される。
ロシアがウクライナに侵攻した真の理由として諸説あるが、日本人にはピンと来にくい。
そして、それ以上にピンと来ないのが、ハマスはなぜイスラエルに攻め込んだかだ。
隣接していてもタブーが生きていれば境界は突破されない。
きっと、味方だと思ってる人が一気に敵になるようなことがいつ起きてもおかしくないし、悪徳商法や現代マルチの入り口が友達作りや仲間作りだというのもすでに定番だ。
凶悪犯罪が目立つが、これらは現代の壊れた人間関係の隙間や盲点が新たな犯罪の主従関係に利用できることで可能になっている。
躾や教育の結果、人間は自分の属するコミュニティで生きやすくするために『これはやってはいけない』というタブーを共有するが、コミュニティに属してるという自覚が無い人にはそんなタブーは通用しない。
人間関係の維持は境界線を維持していたということに、境界線が突破され始めて初めて気付く。
しかし、境界線は物理的な存在ではなく、心の中にタブーとして存在するものなので、一度壊れたら簡単には戻らない。
衣食足りて礼節を知る、この礼節を知ることこそがタブーを知ることになる。
行き過ぎた礼節は息苦しいだけだが、自由を手に入れるつもりで礼節を排除した結果が今だとすると、勉強代として高く付いてる気がしないでもない。
振り子の動きは振り切れるまで続くのは避けられない。