錯覚や勘違いを起こした時に、瞬時にその錯覚や勘違いを正当化するストーリーを作ることがある。
こういう思わせぶりな書き方をすると大袈裟に感じるかもしれないが、夜街灯の灯りなども少ない中で歩いていて前の方に白っぽいものが見えたような気がしたような場合、瞬間的に幽霊と思ったり、いるはずがない何かがいると思ったりする。
しかし、何もない。
いや何かがいた、きっと幽霊だ、見ようとしたら消えてしまった。
人工的な明かりが全く無くても、外なら物理的な光は結構な量で存在している。
見えたような気がした何かは、多くの場合光を目が捉えたのだがそれが何かを理解できるほどではなかったという場合がほとんどのはず。
瞬間的な光の反射にメガネを掛けてる人であれば遭遇することが多いはず、自分の目がレンズ越しに前方を見てるだけのつもりでも、レンズの内側に後方の光の反射が映ることは少なくない。
昭和の頃に怪談や幽霊の話が信じられたのは、きっと夜が暗かったからだ。
現代のように夜でも光が多くなると、幽霊よりも人間の方が怖いと誰もが思ってるはず。
ここまでは前置き。
他人の話を聞いて一瞬でその話を理解できるような場合にも、錯覚や勘違いを正当化するのと同じメカニズムが働くような場合が少なくない。
つまり、正しく認識できようが、間違って認識しようが、脳内には明確なイメージが宿るのだ。
宿ったイメージが鮮明であれば記憶に定着するだろう。
その鮮明なイメージを理解と感じるのだ。
宿ったイメージが強力でも、持っている経験や知識と対立するイメージであれば瞬時に補正は掛かるだろうが、一瞬宿った鮮明なイメージは別の記憶として残るだろう。
自分の中でこのようなことが起きていることは理解できるので、おそらく他の人の中でも起きてて不思議はないだろうが、そういう話を他人としたことはない。
錯覚や勘違いに限らず、人は脳内でイメージを作り上げ、それを成立させるストーリーもセットで組み立てる。
そんなストーリーの多くは自分で組み立てるよりも、社会環境や教育によって刷り込まれるものの方が多いはず。
一旦脳内に定着したストーリーの多くは、社会常識として受け継がれることも多く、その共有が深く広ければ察したり忖度を容易にするはず。
脳内に鮮明なイメージを定着させるという作業の主人公はあくまでも自分自身だが、その際の一部には洗脳もある。
洗脳が勘違いされやすいのは、外部の他人の力で考えや価値観を強制された結果身につくというイメージを持ちやすいことだが、実際には積極的な自分の意思を伴うことで成立する。
洗脳の場合、外部の他人にできることは誤った情報の入力と正しい情報の遮断だけだ、拷問などは思ってるより少ないのでは。
夜が暗かった時代に人々が求めていたイメージと、夜でも明るいのが当たり前の現代では求めるイメージは大違いになっていてもおかしくないが、そのことには案外気付きにくい。
東日本大震災が発生してしばらくの東日本では電力不足で、夜が暗いことを思い出したはずだが今はすっかり忘れているようだ。
向こう100年以上語り継がれると思った東日本大震災は経験した当事者ですらもはや語ってないのでは?
語り継がれないストーリーは、まったく別の新たなストーリーで上書きされてるように感じる。
テクノロジーの世界でも同様のことが起きているだろう。
古い技術があったからこそ新しい技術につながるが、そこには直接のつながりはもはや無い。
そんなことが当たり前になっている。
察したり忖度する文化はネガティヴな扱いを受けるようになったが、それらの一部は伝統などとも呼ばれてはいるが、いつまでフォルダー保存されるのか?
いろんなものが上書きされる運命のように感じるが、その始まりは脳内イメージの上書きからだ。