能登の地震で改めて感じるのは、ほどほどの事がほどほどに満たされることがいかにありがたいかであり、そのほどほどの事ですらきっと贅沢なのだという事。
ほどほどを連発したが、ほどほどと言って何をどの程度に連想するかは人それぞれだろう。
ほどほどとは一体どの程度なのだろうか?
禅問答になるのは間違いない。
現代社会のほどほどはエネルギーの使用というドーピングで彩られている。
記事には次のように書いてある。
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付近の駐車場には、待っているうちに暖房なんかでバッテリーが死んで動けなくなった車がずらり。雪がわびしく降り積もっていて、「充電ステーションが車の墓場と化している」
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対策はされてるがエネルギー頼りでピンチに際しては本末転倒ですらあるようだ。
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Tesla車には寒冷地対応のプレコンディショニング機能もあることはあるんですけどね(冷地到着時に最適な温度で充電できるよう、到着予定時刻から逆算してあらかじめバッテリーを温めておくというもの)。
行列で待ちぼうけの間ずっとバッテリーを温め続けたら、それはそれでバッテリー食ってTesla死んじゃうので、「プレコンディショニングを怠るからこんなことになる」という批判はあまり当たらないように感じます。だって5時間も8時間も20時間もなんだもん。どのみちプレコンディショニングで電池使い果たしちゃうよね。
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エネルギーを使うことを贅沢だとか悪だなんて今更思ってもどうしようもないかもしれない。
アウトドアブームはサバイバル意識を高めることに役立つような気がするが、質素でチープなイメージのアウトドア活動ですら現実には実に膨大なエネルギー使用を前提にしているので、いざという時のサバイバルにはあまり役立たないかもしれない。
能登の被災地では水道が受けたダメージがとても大きく、その復旧には数年が掛かるらしい。
水を望むことを贅沢だと思う人は少ないだろうが、実は贅沢なのだ。
現代人は、歴史上最も贅沢なのだ。
現代人は、ほどほどがどの程度なのかを考えることが必要なのは間違いない。