違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

推しの心理

マズローの欲求五段階の上位二つである自己実現欲求と承認欲求。

 

日本でいうと昭和の高度成長期からバブル期までのような時代背景にお似合いな気もするが、この二つの欲求が盛んに話題なったのは最近10年。

 

だとすると不景気や低成長でも成り立つ価値観なのだろう。

 

そういうことを考えていると、私にとってはピンとこない『推し』や『推し活』とリンクし始めた。

 

推しを応援するという心理が自己実現欲求や承認欲求とリンクするのかもと。

 

ざっくり言うと推しとは昔ながらにいうとファンとなるのだろうが、多分まったく違うはず。

 

ファンだとあくまでも好きなだけで自分とは同化しないだろうが、推しの場合は同化してそうだ。

 

推し活には移動のための旅費交通費など経費が多額になるので、ただのファンだと勿体ないと感じるはず、どんなに好きでも。

 

しかし、その活動が純粋に自分のためならば、例えば昔の若い男性が車やバイクに多額のお金をかけて楽しんでいた心理と共通してるとすれば、周りからバカだといわれてもブレーキにはならないだろう。

 

楽しいし気持ち良いという純粋な自分事にのめり込んでるだけだからだ。

 

そんな自分事にのめり込むことは、合理性とは相容れない自己実現欲求や承認欲求と限りなく同じだったはず。

 

見返りを求めないというか、楽しく気持ち良いという感情が得られることが見返りなのだ。

 

自己実現欲求や承認欲求を昔の人や価値観が古い人は、自らが賞賛を得たいあるいは地位を上げたいということだと理解するが、賞賛などと結び付かなくても得られる多幸感が応援するとか育てるという行為には付いてくるのだ。

 

それがあるべき推しという存在ならばなんとなく理解できるような気がしてくる。

 

 

推しの対象は自分以外の生きてるもの全般に通用するはず。

 

逆にいうと、生きてないものへどれだけ情熱を注いでもそれは推しではないだろう。

 

唯一の例外は著作物になるが、それは作者や著者への推しとなる。

 

その際に資産価値を気にする人はただの野暮にしかならないが、残念なことに推し活を楽しむためには生活の基盤が大事になるという点だ。

 

余力を残した上で残りを全放出、これは鉄則だ。