違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

『大豆ミート』って知ってる?

筋トレやダイエットの効果を高めるために、タンパク質が注目されている。

 

筋肉をはじめ、体の細胞を構成してるのはタンパク質であることを考えると当然だ。

 

筋トレをしなくても細胞は常に入れ替わっている。

 

細胞の入れ替わりは、新陳代謝と呼ばれる。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/新陳代謝

「細胞の新陳代謝」の周期は部位によって異なる。

胃腸の細胞は約5日周期

心臓は約22日周期

肌の細胞は約28日周期

筋肉や肝臓などは約2ヶ月間の周期

骨の細胞は約3ヶ月周期

細胞の新陳代謝が正常であれば身体は3ヶ月で新しく生まれ変わる。

 

 

筋トレで筋肉が発達する理由は、元の筋肉に負荷を与え破壊(損傷)させることで、修復作業が行われるが、前回損傷した程度の負荷に耐えうるように筋肉を増やして修復されるという理屈に基づく。

 

だから、何もしないで新陳代謝で必要とされるタンパク質の量よりも多い量が、筋トレには要求される。

 

過剰にタンパク質がもてはやされる理由はこの辺にある。

 

問題は、必要量以上のタンパク質を体は受け入れられないという点にある。

 

必要量を超えると、全て腎臓が処理することになる。

 

世間では、タンパク質の過剰摂取は弊害が無いような風潮があるが、余剰タンパク質を処理する腎臓には過大な負担がかかる。

 

筋トレの場合、トレーニングで破壊された筋肉細胞の最終処理も腎臓が担うのでダブルパンチになる。

 

腎臓は、地味な印象しかないが、人間の元気や活力を支えているので、腎臓が弱ると元気がなくなる、元気の中には性欲も含まれる。

 

私は、極端な腎臓の機能低下で大変な思いをしたことがある、短期間の内にブクブク全身がむくみ、筋肉がごっそりなくなった。

 

そんな腎臓の機能低下は突然顕在化するが、健康診断の数値にはかなり以前から現れていた。

 

腎臓の機能が低下すると、体に良いと思われてる食材の多くが、摂取してはいけないものになる。

 

幸いなことに、失った筋肉や体力も表面上は取り戻したが、筋トレも食事も本来大好きなのだが、抑えめにセーブしている。

 

少々エビデンス不足の話ではあるが、事例報告が増えている話として、タンパク質の過剰摂取が良くないのは動物性タンパク質に関してで、植物性タンパク質の場合は当てはまらないらしいというのが出てきている。

 

プロテインは腎臓にダメージを与える?〜現代の科学が示すひとつの答え 2017/11/23

タンパク質の大量摂取が腎臓にダメージを与えるのか?という疑問に、現代の栄養学・医学は明確な答えを断言することはできません。それはエビデンスを示す実験ができないからです。しかしながら観察研究を重ねることにより、赤身肉(牛肉、豚肉、羊肉など)が腎臓にダメージを与えるというひとつの答えを示しています。連日、赤身肉を過剰に摂取することは控えるべきでしょう。

 

私たちがトレーニングの後に摂取するプロテインは乳や植物由来なので、今回のレビューによれば腎臓へのダメージはなく、過度でなければ安心して摂取して良いと思われます。国際スポーツ栄養学会(ISSN)により最適な摂取量が示されているので、参考にしながら、必要以上の摂取は控えるようにしましょう。

 

プロテインを摂ってる人は、すぐに植物性に替えるべきだ。

 

普通の食事でタンパク質の摂取をしてる人には、植物性タンパク質と言われたら納豆か豆腐となるのだろうが、どちらも好きな私ですら、それでは何か物足りない。

 

今日、タンパク質について書いてみようと思ったのは、今一部のヘルシー志向のお店で大豆ミートで作られた料理が人気だと知ったから。

 

味付けの仕方も肉と同様で、味も食感も遜色ないらしい。

 

大豆をミート状にするのは手間暇掛かりそうだなと思ったが、スーパーの大豆のコーナーに素材として売ってるらしい。

 

ちなみに"大豆ミート"と検索すると、

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これで、植物性タンパク質の料理のバリエーションが広がりそう。

 

意識の高い人には是非オススメだ。

 

今週末は、大豆ミートを試してみたい。

『正解』の無い時代になる!

巷で流行ってる筋トレにはいくつかの理由がある。

 

ダイエットのために基礎代謝を上げようと筋肉をつけるため。

 

運動不足や老化に抗うため。

 

 

始めるキッカケは様々でも、継続に繋がる理由は、ほぼ一択。

 

結果が、右肩上がりを実感できるからだ。

 

勉強でもスポーツでも何かに一生懸命取り組んだ人の多くが、得られる結果に満足できないという思いを味わったことがあるだろう。

 

右肩上がりの伸びを期待するのに、全然上がらなかったり、時には下がったり。

 

それでも続けるか、だから止めるか、結構大きな分かれ道となる。

 

 

 

 

 

時々引用することがあるマズローの欲求5段階説。

 

現在は『承認の欲求』の時代で、次の段階の『自己実現の欲求』にシフトしつつあることは多くの人が感じている。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/自己実現理論

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  • 自己実現の欲求 (Self-actualization)
  • 承認(尊重)の欲求 (Esteem)
  • 社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
  • 安全の欲求 (Safety needs)
  • 生理的欲求 (Physiological needs)

 

 

『承認の欲求』を満たすためにの鍵は、自分自身の外側にある。

 

自分自身がつくりだす結果に対して"自分の外側から得られる評価"を求める行為になるからだ。

 

厄介なのは、外からの評価を気にするが、評価されるのは自分自身の内面で動機づけされた行動でもあるからだ。

 

自分が満足できることを目指し、それなりの達成感を得ても、外からの評価が得られなければ、結局満足できない。

 

逆もあるだろう。

 

自分が出した結果に全然満足できてないのに、外からの評価が高い場合などだ。

 

『承認の欲求』が高い場合、結果として得られる評価が高くなければ満足できなくなり、ジレンマを生む。

 

ジレンマは、行動の原点である『動機(モチベーション)』に影響を及ぼすようになる。

 

 

 

・得られる評価に関係なく、自分の内側の動機に基いて行動する(自分を貫く=要領が悪い)

 

 

 

・評価が得られるような行動に、動機をシフトする(自分を曲げる=要領が良い)

 

 

 

 

承認の欲求は、報酬を求める欲求と同じで、結果と費やした努力(やったこと)の関係性がイコールとはならない。

 

運やタイミングという要素が大きく関係するという意味では、神様のイタズラと言える、筋トレは神のイタズラが少ない稀有な例である。

 

承認の欲求に取り憑かれると、動機(モチベーション)を安定維持させることが難しくなり、心を不安定にする。

 

心を病んだ人が増えるのは当然といえば当然なのだ。

 

承認の欲求とは、ネズミ講に似ていて、ある程度枠がいっぱいになれば閉塞感しか漂わない。

 

強い立場の人や企業も、弱い立場の人や企業も、皆が迷走している。

 

まるで、教祖の教えが通用しなくなった宗教のように。

 

 

外に向けていた意識を、内に向ける時代が来てるようだ。

 

『自己実現の欲求』が新しいルールになるだろう。

 

と言っても、わがままで好き勝手なことをして良いわけではない。

 

『承認の欲求』の時代では、相対的に上位にいることが求められるので、他人と競うことが求められた。

 

『自己実現の欲求』の時代では、絶対性の追求が求められるので、競う相手は自分自身となる。

 

筋トレにハマる人は、自己実現の世界に入っていると言える。

 

 

相対性と絶対性という対立概念とは別に、もう一つキーワードになりそうな対立概念が、フローとストックだ。

 

情報がタイムラインを流れ、あっという間に陳腐化するのはフローのなせる業だが、そんなフローは流動性が活発であるとも言える。

 

流動してるものは腐らないという良さがある。

 

そう考えると、ストックは腐ることがあるということを忘れてはならないと思い出す。

 

経済用語のストックは、フローの大元を意味し、社会全体ではフローが増えればストックが減るものだと解されてる。

 

一般的な意味で言うと、将来の不安に備えての貯蓄はストックだ。

 

最近は、断捨離やシェアが流行っているが、これはアンチストックとなる。

 

『自己実現の欲求』に時代がシフトすると、現在解釈されているフローとストックの意味に新しい要素が加わるような気がする。

 

良いとか悪いとかと言う違いではなく、個性やコンセプトの違いとして価値を持つようになるだろう。

 

どう行動してよいかわからない時と言うのは、自分がやりたいことと、自分がやらなければいけないことの間で悩んでいることが多く、さらに突き詰めるとフローとストックのどちらを選択するのかという問題でもあることが多い。

 

先入観や固定観念に縛られている時は、ストックの問題が起きている。

 

そんな時は、流動性を与えて、解釈を変えると視界が開ける。

 

逆に、自由に考えすぎて収拾がつかなくなるような場合は、どこか一点に焦点を当てることでうまく納まることがある。

 

フローとストックを考える時、ダムの水をストックと捉え、流れ出る水がフローと考えるが、この捉え方だと雨を忘れている。

 

 

現在は、承認や報酬の欲求の方が圧倒的に強いので、フローとストックの使い分けは、要領の良さや悪さで捉えられていて、フローをものにした方が有利だと見えるが、その関係性に新しい解釈が生まれてきたら『自己実現の欲求』の時代へシフトしたと言えるだろう。

 

フローに分がある時は、才能もアイデアも枯渇するまでが勝負だと考えがちだが、エコシステムには、"循環"がある。

 

 

相対性が重視される『承認の欲求』の時代には、フローとストックは対立概念だが、絶対性が重視される『自己実現の欲求』の時代では、フローとストックは類似概念になるような気がする。

 

『自己実現の欲求』の時代には、才能もアイデアも、気が付いたら補充されるだろう、自然界で雨が降るように。

 

多様性やダイバーシティという言葉が増えてきたことは、正解が限定されないということを示している。

 

"正解を求めることが間違い"となり"正解"が持つ排他性が人間活動からなくなる。

 

具体的にどういうことかは、時代が教えてくれるだろうが、エコシステムのような"循環"を意味するようなものが似合いそうだ

 

『どこの誰か』がわかることの価値

当たり前だと思ってることには疑問を持たない。

 

だから、当たり前だと思ってることには"ありがたみ"を感じない。

 

昭和に成人した人の多くは、関係のスタートに『どこの誰か』を確認し合うのは当たり前だった。

 

そんな当り前であるがゆえに気にしてなかったことを気にするようになったのは、送り主に心当たりがないダイレクトメールが来るようになったからだ。

 

単身世帯以外は、ほぼすべての電話所有者は電話帳に記載されることを望んでいたので、やみくもに送るダイレクトメールで構わなければ、電話帳から名前と住所を拾ったと考えられるが、中には家族構成を理解してると思われるものも出始めた。

 

やがて、名簿業者と言うのが介在してることが知れ渡る。

 

この辺から、住所氏名、家族構成を知られるのが気持ち悪いという感情を世間が共有するようになって行った。

 

自分の情報を隠すということがおかしなことではなくなった。

 

昭和の頃は、"悪いことをしてなければ知られても構わない"と考えられていた個人情報や家族情報はやがて、"痛くない腹を探られたくなければ知られないようにしろ"となった。

 

昔から、"知られたくない"というのは悪人や犯罪者特有の心理だったが、善良な一般人も同じメンタリティを持つようになった。

 

隠れてコソコソするわけではないが、"知られたくない"と思いながら行動する人が増えると、"見えない相手"が増えてくる。

 

推理小説ならば、昔は被害者と加害者の間にどこの誰かを理解できている人間関係が明らかに存在することが多かったが、いつの頃からかどこの誰かを理解できないで発生する人間関係に基いて犯罪が構成されるのは当り前になってきた。

 

"見えない相手"を相手にすることは実は結構難しい。

 

感情の向け先が定まらないからだ。

 

だから、感情の向け先を見える相手にズラすことがある。

 

たむらけんじ批判に反論「泥棒は何も非難されへん」

“芸人仮想通貨界の黒幕”とささやかれているたむらが、仮想通貨取引所大手「コインチェック」から約580億円分の仮想通貨「NEM(ネム)」が流出した騒動について言及した。多くの芸人に仮想通貨を勧めていたため、流出による被害の“元凶”扱いを受けているたむらは「仮想通貨盗んだ人のこと悪く言う人って少ないですよね? 俺の方が悪いみたいになってるじゃないですか? 俺何にもしてへんしすっげぇ怖いなって思います。泥棒が何にも非難されへんておかしいから」と心境を吐露。「僕はあの時の批判ていうのは、芯のない批判だと思います」と自身を批判した人々を一刀両断した。

 

募金も相手が見えにくいので詐欺の舞台になりやすい。

 

駅前に出没、フィリピン系「ニセ募金ボランティア」を追う。あの許可証は本物? 2017/5/19

駅前や繁華街に出没する東南アジア系の募金集団を見かけたことはあるだろうか? SNS上では「詐欺」「ニセ募金」と指摘されているが、果たしてその実態は? 記者が街に出てその正体を調べてみた!!

 

「わたしたちはアジアのめぐまれないこどもの、ためにかつどうしている。ボランティアです。よろしければしょめいとぼきんをおねがいします」(原文ママ)

 

この手の行為には二つの"見えにくい"が存在する。

 

募金を募っている人たちの"素性"が見えにくいと言うのが一つで、もう一つは"募金の行き先(実際の使われ方)"が本当はよく見えないだ。

 

募金に応じて支払う人は、良いことをしたという満足感を得るだろうが、募金がどう使われるかを確認するわけではない、募金が詐欺だった場合最も怒ってよいはずだが、彼らが怒ることはないだろう。

 

"見えない相手"には感情が湧かないからだ。

 

募金詐欺にあった被害者は、むしろ詐欺をあばいた人に対して、余計なことしやがってと不快に思うかもしれない。

 

"見えない相手"が、"表に出ない首謀者"であることを意味する"黒幕"である場合も、二つの"見えにくい"が存在する。

 

実行部隊である現場の人間は、匿名もしくは架空名義で行動することで"見えにくさ"を作り、更に実行部隊と黒幕が直接接触しないことで真相がカムフラージュされる。

 

 

このようなことを考えていたら、実行部隊と黒幕の関係は、最近良く話題になるサブリース問題における物件オーナーと不動産会社の関係に似てる気がしてきた。

 

違いから先に示すと。

 

詐欺の場合、実行部隊は客を騙すが、それはそもそも最初から犯罪だからで、サブリースの場合物件オーナーは基本入居者である客を騙したりはしない。

 

詐欺の場合、客と実行部隊の間で揉め事は発生するが、実行部隊と黒幕の間では基本揉め事は発生しない。

 

黒幕は、実行部隊を恐怖で支配してるからだ。

 

サブリースの場合、客(入居者)と物件オーナーの間では些細な問題しか発生しないが、オーナーと不動産会社の間では大きな問題が発生している。

 

そして、サブリースの問題とFCビジネスの問題もほとんど同じだ。

 

サブリースやFCビジネスが、物件オーナーや加盟店との間で、収益を巡っての持続可能性に関して問題を起こしている。

 

看板やノウハウに対する上納システムに対する不満が常に起きている。

 

物件オーナーや加盟店は、個人もしくは中小零細業者であることが多いが、それに対し不動産会社やFC本部は規模も大きく社員数も多い。

 

契約に基づく行為は、文言上は対等な取引になるが、介在する人や部署の複雑さが障害になり、個人や零細業者から見ると、大企業という存在は匿名性を帯びてくる。

 

大企業は逃げも隠れもしないが、匿名性が生まれると途端に『どこの誰か』が見えなくなる。

 

だから、物件オーナーや加盟店は交渉に無力感を感じるだろう。

 

いつの時代でも、身の丈に合うということは重要になる。

 

そして、こんな時代だからこそ、『どこの誰か』が大事になるが、時代に合ったやり方が必要だ。

 

ほんとうの意味で『どこの誰か』がわかるとは、その人の考え方や感じ方を知っているということを意味する。

 

ことばは嘘をつくが、嘘ばかりつくことは出来ない。

 

また、嘘をつく必要がなければ、嘘はつかない。

 

意見や考えを発信することの価値は、『どこの誰』の先にある考え方や感じ方を、知ってもらうことの価値だ。

 

発信する回数が多いほど、嘘はつけないし、おかしなことはすぐバレる。

 

匿名で発信していても、そこに人間性は出て来る。

 

どんな発信をしてるかも重要だが、発信してないことが最も不利になるだろう。

 

どうでもよさそうな些細な違いで、ついていく差が大きくなる。

大抵のことは『笑顔』で乗り切れる!

平昌オリンピックで羽生結弦が金メダルを獲得し、日本のテレビ番組は大いに盛り上がっている。

 

羽生結弦を見てると、"天は二物を与えた"と思えるが、そんな羽生結弦には、昨年の怪我以外にも乗り越えた苦しみがあったということが知られた。

 

羽生結弦が東北高校野球部からいじめ!

 

信憑性に若干の疑問も呈されてるが、若くして人気と実力を開花させ、嫉妬と羨望の対象になったが故の苦しみがあったことは想像できる。

 

アスリートの世界には、最高のパフォーマンスを発揮させる時に『ゾーン』に入っているという言い方をすることがある。

 

最高のパフォーマンスを発揮する際の圧倒的な集中力を生むのが『ゾーン』だと言われる。

 

清水宏保が語る、金メダリストにも、熟達のサラリーマンにも、共通する「ゾーン」  2018.02.19

アスリートが体感する機会の多い「ゾーン」の存在に言及。「何年も掛けて準備した方々や、神経は高ぶっているんだけど肉体はどことなく力が抜けている(特に表情筋や指先)……」など、感覚的な説明を行ったうえで、「それはアスリートだけのものではない」とも主張。「日常の仕事の中でも集中したことにより仕事が熟せ、いつもよりも時間の流れや進みが遅く感じられる。それも1つのゾーン。熟達したサラリーマンにも似た現象はあるはず」と語った。

 

『ゾーン』は、入念な準備を行い、予想しうる状況に対策し、最大限の緊張を緩めること無く脱力(リラックス)するという、凡人には矛盾にしか感じない状態なのだ。

 

比較する話としてどうかとは思うが、下記の話何がダメだったのだろうか?

 

オタクな男女専用の婚活って?40歳オタ男性が見た現実

「思い切りましたねー!」の一言に、心が折れてしまったTさん。結局、誰とも連絡先を交換することなく、無人島から脱出して帰ったそうです。

 

リア充すぎてまぶしい。若きオタク女性たち

 

「今の子たちはオタクであることに抵抗がない上に、それを生かして行動していてすごいなって思います。僕らの頃は、オタクであることは言えないし、ましてやお見合いパーティーなんて恥ずかしくて行けませんでしたから」と、うなだれるTさん。

 

Tさんの知識と経験は、オタ婚活ではかなりの武器になるはずですが、引っ込み思案な性格ゆえに持てあましている様子。また、彼の中で年齢がコンプレックスになっているようです。

 

同世代のオタクが集まる場所に行けば、年齢を気にせずのびのびできる気もするのですが……」

 

 

上記の『ゾーン』の話に照らし合わせると、準備はそれなりにできていると言って良いだろう。

 

彼に欠けていたのは、緊張の先のリラックスだ。

 

緊張感を維持してリラックスするためにどうすれば良かったのだろうか?

 

 

常に緊張感を強いられながらリラックスを強いられる世界に、お笑いの世界がある。

 

直接的には、芸を競っているし、我々見る側はその芸のおもしろさを求めている。

 

しかし、売れてる芸人は、少し違う捉え方をしているらしい。

 

お客は、意外性という面白さも求めてるが、それとは別に"安心感"を求めていると感じられるらしい。

 

バカリズム「僕たぶんいい笑顔してるっぽいんですよ」

2018年1月6日発売『群像 2018年2月号』(講談社)

 

石塚英彦「基本笑ってればそこそこ芸能界やっていける」

2018年1月5日放送「よんぱち 48hours」(TOKYO FM)

 

今田耕司「皆売れるとタレ目になってくる」

2014年8月15日放送「よんぱち 48hours」(TOKYO FM)

 

http://notei.hatenablog.com/entry/2018/02/19/210646

 

 

 

最近評価が急上昇中の出川哲朗を見ても確かに"安心感"が重要だと感じられるし、老化や肥満が原因かもしれないが、今田耕司が言うようにタレ目になってる気がしないでもない。

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      ↓   ↓   ↓

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http://motlife.net/archives/1039

 

 

芸人は、舞台の上で最高に緊張していても、売れっ子だったら笑顔になれる。

 

アスリートは、舞台の上では笑顔ではないかもしれないが、心の中には笑顔があるはずだ。

 

緊張で笑顔なんかとても出来ない状況で、笑顔を見せることができれば大抵のことはうまくいくはずだ。

 

その行動間違ってます!

合理的に行動しようとする時の行動は、正解を求めて行う。

 

あらかじめ正解がわかっていることや、目標として便宜的に正解を設定したりすることでそこに向けて行動する。

 

とりあえず正解が設定できるのは、『問題は何なのか?』がわかっているから。

 

『問題』は、世間から提示されたり、突きつけられたり、時には自分自身で設定したりする。

 

問題には、簡単なものから難しいものまで様々あるが、合理的な判斷や行動の背後には、正解が存在するということが挙げられる。

 

合理的な判斷や行動の拠り所になる正解は、現代ではほぼ2つの分野に集約される。

 

①稼ぐ

②儲ける

 

その結果、売りたい人ばかりで、買いたい人がドンドン減っている

 

だから、賢い人達は、売ってるように見せずに買わせる。

 

投資や利回りを求めるものが、それに当たる。

 

博打やギャンブルも宝くじも胴元が儲かるシステムなのに、買う人が夢を見るものとして取り上げられる。

 

おもしろいのは、売りたい気持ちは、儲けたい気持ちと同義なので、投資に意識が向かうが、なぜか投資も買い物であることは見過ごされている。

 

 

 

無い物ねだりの気持ちが、隣の芝生を青く見せ、もう戻れない見せかけだけの若さにしがみつかせる。

 

 

全ての行動は、正解を求める気持ちから起こるが、昔は情報の差が結果の差に繋がることが多かった。

 

しかし、現代では情報に関してはほとんど差が無くなってるのに、結果的に昔以上に大きな大きな差がつくようになっている。

 

そんな差を生み出す、大元にある『違い』がいくつかあるという話が最近立て続けに出ているので、それを少し整理してみた。

 

大元にある違いの特徴は、無意識に作用するもので、その影響(呪縛)を受けていることに気付けていない場合があるということだ。

 

正解を出すことが成功することならば、成功が何を意味するのかを知っていなければならないが、そもそも成功がどういうことなのかを知らない人が多過ぎるようだ。

 

「人は一般的には失敗を糧にはできない。糧にできるのは確固たる成功体験がある人だけ」そのためにするべき事に共感多数

 

 

 

 

血液型で性格を占うという話は、今はどの位信じられているのだろうか?

 

日本人は、血液型よりも、"日本人である"ということで知らないうちに身につけてる気質があるようで、ムラ社会の束縛に通じる大元を感じる。

 

不確実性が問題なのか、不確実性に耐えられないことが問題なのか?

国毎に不確実性回避度の得点を算出している。

 

53の国・地域のうち、不確実性を最も避けたがるのがギリシャで、次いで、ポルトガル、グアテマラ、ウルグアイ、ベルギー、サルバドール、日本という順番になっており、日本は不確実性回避度が高い国の1つになっている。

 

こうした不確実性回避傾向が常にマイナスとは限らないだろうが、直感的には今の日本にとってはプラスよりもマイナスに働くことが多いように思う。

 

高度経済成長期のようなモデルがあった時代と違って、現在のように進むべき方向が明確に示されない時代には不確実性を避けたがる国民が多い国は不利になるように思う。

 

 

日本人であるということで持ってる資質がある一方で、そもそも人間として持ってる資質というものがある。

 

人間は、思った以上に曖昧な存在で、確固たる考えや感覚に基づいて反応してるつもりでも、説明が付かない行動を取ることもある。

 

『私はすでに死んでいる──ゆがんだ〈自己〉を生みだす脳』 「自己」という感覚を脳はどのように構築しているのか

そこで著者が引き合いに出すのが、アーウィン・フェインバーグの強調する「随伴発射」や、クリス・フリスの提唱する「コンパレーター・モデル」だ。

 

たとえば腕を動かすとき、運動皮質は腕の筋肉に指令を伝えるだけでなく、その指令のコピー(随伴信号)を脳のほかの領域へ送る。

 

受け取った領域は、今度はそのコピーをもとに、腕の運動がもたらす感覚を予測する。

 

そして、その予測と、実際に生じた感覚(触覚、固有受容感覚、視覚など)とを比較し、その結果にもとづいて「自己」と「非自己」の区別をつける。

 

つまり、「食いちがいがなければ、その行動を遂行したことになり、行動は自分のものという自己主体感が得られる。

 

一致しないところがあれば、行動は別の誰かがやったことだと感じるのだ」。

 

この感覚は哲学的でもあるので、ある種の永遠のテーマを感じさせる世界観がある。

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/なぜ私は私なのか

世界中に今現在 沢山の人がいる、また今までに数多くの人が生まれてきて、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろう。

 

しかしそれにも拘らず「なぜは他の誰かではなく、この人物なのか?」

(Why am I me, rather than someone else?)

 

人間が取りたがる合理的な行動の背景には、予測や予想がある。

 

予測や予想を確定に近づけるために、予定や予約という概念が生まれた。

 

しかし、『予(あらかじめ)』は、あくまでも確定はしてないというパラドックスに繋がる。

 

「不適切な個人データ活用」VS「飲食店ドタキャン客」の不毛な戦い(訂正とお詫びあり)

少なくとも、この全日本飲食店協会のサイトを見る限り、どう見ても全日本を代表できるような組織にも見えず、不適切に個人データが流通することだけは避けてほしいと思います。

 

ドタキャンは迷惑以外の何物でもありませんので、何かうまい落としどころがあればよいのですが。

 

ほかにも、病院その他、予約を取るだけ取ってぶっちすることを繰り返してしまうのを防ぐためには、結局は予約時に本人情報をきちんと提示する仕組みをペナルティと一緒に決められる法整備を行うぐらいしか思い当たりません。

 

もっとも、私も不慮の事故や子供の発熱で事後に「申し訳ございません」と平謝りすることは数多いのですが。

 

「気づいたら約束の時間を過ぎていた」のもまた、許されざる罪なのでしょうか。

 

 

賢く行動してるつもりで取る合理的な行動は、『予』を確定できずに不毛な闘いで疲弊する道を選ばせることがある。

 

 

 

 

予測や予想に入手した情報を絡めて賢く行動してるつもりで、ババを引くことは多い。

 

情報のバカ格差

暗記力が優れていても、計算が早くても、そんなことはコンピューターに任せれば良いので、なんの付加価値もありません。

 

試験で高得点を取れるよりも、ネット広告の仕組みを理解し、儲かる仕組みを作る人のほうが豊かになれる時代です。

 

それに気がついていない日本人は、今日も子どもにせっせと計算ドリルをやらせて時間を浪費しているのです。

 

 

"賢く見える奴がバカで、バカに見える奴が賢い"、そんな時代になるのかもしれない。

『点』と『点』は、どうつながるか?

2005年6月のスタンフォード大学の卒業式で行われた故スティーブ・ジョブズの有名なスピーチの中に次のような一節がある。

 

先を読んで点と点をつなぐことはできません。

後からふり返って初めてできるわけです。

したがってあなたたちは、

点と点が将来どこかでつながると

信じなければなりません。

自分の勇気、運命、人生、カルマ、

何でもいいから、信じてください。

点がやがてつながると信じることで、

たとえそれが皆の通る道からはずれても、

自分の心に従う自信が生まれます。

これが大きなちがいをもたらしてくれるのです。

 

 


スティーブ・ジョブズ 卒業式スピーチ全文(日本語・英語字幕) スタンフォード大学 Stay Hungry, Stay Foolish. by Steve Jobs

 

しかし悲しいことに、このスピーチに感動した多くの人が取る行動は、『自分が持ってる点』や『自分が関係した点』を未来に向かってつなげようと躍起になってしまう。

 

点と点が繋がるということは良いことばかりをもたらす訳ではなく、悪いことをもたらすこともあるだろう。

 

意志と無関係に点と点が結びつくことを意味する言葉は、日本語にもある。

 

  • 果報は寝て待て
  • 因果応報

 

因果応報の因果とは仏教では前世の行動を意味する。

 

今、良くない目に合ってる人は、実は前世の悪行のせいかもしれないとしたら、自棄(ヤケ)を起こしそうだが、自棄を起こすと来世にその"ツケが回ってくる"

 

それが嫌だったら、今から行いを改めなければいけないと言う意味では仏教はよく出来ているなと感じる。

 

悪い意味で点と点がつながる"因果応報"とはカジュアルな言い方をすると、"ツケが回ってくる"となる。

 

良いことが回ってくることを意味する『果報は寝て待て』とは、ツキが回るのを待てという意味だ。

 

"ツケ"の元になる悪い行為は、おそらく積極的に行われた行為のはず。

 

"ツキ"は、消極的に寝て待つだけで良いのだろうか?

 

『果報は寝て待て』ということばには、対をなすような『人事を尽くして天命を待つ』ということばが存在する。

 

"人事を尽くす"とは、やれるだけのことをやれと言う意味。

 

悩ましいのは、"人事を尽くす"人は大勢いるのに、なぜ果報は訪れないのかということだ。

 

疑うべきは、"人事の尽くし方"。

 

日本人や日本企業の劣化が取り沙汰されることが多いが、今と昔(と言っても前回東京オリンピックの頃の日本)を比べて一つ顕著に感じる印象の違いがある。

 

昔の日本人は手先が器用だったが、今の日本人は手先が不器用になっている。

 

不器用になっている理由は、ただ単に手先を使うことが減り、それが積み重なった結果だろうが、これが"人事の尽くし方"に大きく影響してる気がする。

 

手先が器用だった頃の日本人は、細部へのこだわりで優位を築いた。

 

人力でアナログの時代には、枝葉末節へのこだわりは、全体の質を上げるためには欠かせなかった。

 

しかし、機械化とデジタル化が枝葉末節へのこだわりを不必要にしていった。

 

 

そして現在は、幹や根が重要視されている。

 

日本だけでなく、世界中が幹や根を大切にし、枝葉末節を大切にしていない。

 

それは時代が大きく変化しているからで、最重視されてるのは、プラットフォームと呼ばれる基幹・基盤システムだ。

 

それに加えて世の中は、『具体的』から『抽象的』に価値観がシフトしつつある。

 

"仮想◯◯"と表現されるものは、抽象的の代表だ。

 

誰でも分かる価値から、分かる人にしかわからない価値にシフトしている。

 

この大きな流れの中で、"点"を作ろうと皆が躍起になっているが、その"人事の尽くし方"が間違っているのかもしれないと感じてる。

 

 

過去40年で動物の半分以上が消えた:gigazine 2018年02月10日

現在の天然資源の消費ペースを保ったままで、人類全体が将来にわたって生活を維持するのに必要な天然資源を算出すると、

 

人類全体で地球1個と半分の量にのぼる「天然資源が必要」とのこと。

 

また、人類全体がイギリス様式の生活を維持するには地球2個と半分の天然資源が、

 

そして人類全体がアメリカ様式の生活をするのには、なんと地球が4個分もの天然資源が必要と算出されています。

 

 

人類は、点と点を繋げながら生きてきたが、地球全体のエコシステムは点と点を断ち切られ続けている。

 

 

現在発生している幹や根を重視する動きと抽象的な価値観という流れは暫く続くだろうが、持続可能性(sustainabillity)に関連して一波乱追加されるだろう。

 

 

 

 

"点"を未来に向けてつなげることは出来ないが、逆張りというのは博打の王道でもあるので、不必要だと判断し見捨てた枝葉末節へのこだわりに活路を見出すというのはありかもしれない。

 

 

大事なモノは更新しなければいけない

絶対不変の"モノ"があるならば、時代がどう変わろうと変化すること無く存在し続けるのだろう。

 

1000年掛けて変化するものであれば、人間の目には一見"不変"に見えるかもしれない。

 

紀元前4世紀のアリストテレスの時代から16世紀にコペルニクスが誕生するまで、地球が宇宙の中心であるとする"天動説"は、約2000年間信じられ続けていた。

 

大昔の人々にとって、地球が動いているということは受け入れがたいことであったのだ。

 

 

地球は、約46億年前太陽系とともに誕生したとされるが、紀元前6世紀にピタゴラスが唱えた"地球球体説"は、紀元前4世紀アリストテレスが登場するまでは異端とされ、"地球平面説"が信じられていた。

 

地球平面説が信じられていた頃、海の端は滝のようになっていて海水は宇宙に落ちていると昔の人は信じていたらしいが、振り返ると子供の頃は、地球が球体であるというのはなかなか受け入れがたかったことを思い出す。

 

海に繰り出す多くの冒険が、海の端っこを見てみたいという動機で展開されていたことが想像できる。

 

おそらく、絶対不変というものは、実際には存在しない概念上だけの存在で、時間の前では"数式で示される定理"ですら変化するかもしれない。

 

万物は、時間の経過とともに常に更新され、変化している。

 

伝えたいという気持ちも、時間の経過が"伝わらないもの"に更新してしまう。

 

 

【3.11から6年】神は存在する ― 津波に襲われなかった数々の神社の謎と、1000年前のスピリチュアルメッセージ

そう考えると、津波が来るギリギリのラインを沿うように神社が建っている理由も分かる。また、神社だけでなく、古い寺の多くも津波被害を免れているという。

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福島県南相馬市から新地町にかけて、東日本大震災の津波の影響を受けた海側の神社84社を訪れ、被災状況を確認したところ17社が流出・全壊だったが、67社はすべて無事だった。

 

「延喜式」と呼ばれる文書(927年)に記載されている神社を「式内社」と呼ぶが、福島、宮城、岩手の式内社100のうち全壊・半壊したのは3社のみだった。

 

 

貞観大津波が起きたのが869年、当時の人々が後世に「津波が起きたら神社に逃げろと」いう思いを込めて神社を建立したことが想像できる。

 

しかし、そのメッセージに気付いたのは、津波が起きた後だ。

 

貞観大津波の60年後までは受け継がれていた大事な教訓としての情報はその後"更新"されなかった。

 

更新されなかったから伝わらなかったのか?

 

あるいは、更新された結果伝わらないものになったのか?

 

おそらく、長いブランクが生じると更新は止まると想像できる。

 

 

その頃の神社や寺は、人々に寄り添う存在で、下記のような存在ではなかっただろう。

 

寺がヤミ金、5億収益か…宗教法人を課税通報へ 2/13(火)

代表らは資金の貸し付けと同時に、借り主に陶器などを高値で買わせるなどし、その代金で実質的に利息を得ていたという。県警は、宗教活動を装っていたと判断した。

 

 

 

 

 

ipod以降のApple製品や掃除機のダイソンに共通するのは、最初に外見のデザインで人を惹きつけ、実際に使って使いやすく、使って初めて分かる新鮮なユーザー体験という"更新"が実現されている。

 

しかし、その背後にある技術は決して最新のものだったり、実験的なものだったりするわけではなく、それなりの熟成を経て生まれている。

 

更新されたのは、技術そのものではなく、技術の活かし方だ。

 

かつては、技術をアピールするためのデザインであり、機能が増えたが、同時にスイッチ類が増え、操作性が複雑になり、万人向けではなくなっていった。

 

ウェブデザインの世界には、『2クリックを1クリックにするのは発明で、1クリックを0クリックにするのは革命』ということばがあるらしい。

 

現代の技術の競争は、技術そのものも然ることながら、"技術の活かし方"が争われている。

 

 

私がWindwsからMacに乗り換えた時、使いやすいなとは感じたが大きな差があるとは感じなかった。

 

乗り換えて半年も経つと、たまにWindowsを使うと使いにくいなと感じることが増え、まる4年半が経過した現在、Windowsを使う時かなりストレスを感じる、スペックがストレスを感じさせてるのではなく、1クリックまたは2クリック余計な作業を強いられるストレスなのだ。

 

PCを替えたことで、私の意識が更新されたことを実感できる。

 

現代では、遊びでもビジネスでも競争の舞台で取り組む人には、意識の"更新"が要求される。

 

最近話題の『下町ボブスレー』は、技術力で負けたというよりも"技術の活かし方"で負けたと言え、それは意識の"更新"がされてなかったことから導かれていると感じる。

 

この意識の更新が為されてないことが諸悪の根源と言うのは、下町ボブスレーに限らず日本全体に当てはまる気がするが、何も問題はない。

 

現在世界の主流の"意識"を踏まえて、その先に更新して行けば良いだけだ。

 

1歩遅れてるからこそ出来る業だ。