違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

【モラトリアム】M−1グランプリの審査員批判!

モラトリアムとは、本来は“猶予”を意味するが、日本では1970年代後半の大学生のライフスタイルから垣間見える行動を心理学的に捉える際の説明に用いられたことをキッカケに、最近で言うところの「自分探し」に近い意味で使われている。

 

昔は社会人になる直前を指すことばだったが、現在はもっと適用範囲が幅広くなっている。

 

 

私にとってはモラトリアムというのは、人生で悩みや試行錯誤が発生した場合、そこから抜け出すためにエネルギーを費やす時間を意味するものに思えてしょうがない。

 

人生100年「一生モラトリアム」のすすめ “大人になれない”のは悪いこと?

つまり、モラトリアム期間に求められるものが、「上から教えてもらう」から「自分たちで探して創る」に大きく変わってきたのです。

そして、一人前になったつもりで「自分たちで探して創る」を辞めてしまうと、すぐに時代に取り残されてしまう。つまり、開拓と創造をし続けるために、一生ずっと半人前のつもりで模索する必要があるのです。

 

 

この数日間、お笑い界や芸能界で話題になってる出来事がある。

 

賛否両論あるが、圧倒的に上沼恵美子サイドが優勢のように感じられる。

 

 

 

 

 

上沼恵美子さんは、2年前にこんなことを言われていた。

 

 

上沼恵美子の逆襲  2016/12/11

ホームの大阪で、生放送でないと出ず、番組では通例となっている手土産も無く、

終始常識人を装いながら言いたいことだけ言って帰る上沼は、不快なおばさんでしかなかった。

いくら話の運びが上手く機転が利いても、「西の女帝」がこの程度とはガッカリだ。

あれで彼女が求めたものは得られたのだろうか。全く分からない。

 

 

ことの是非はともかく、世間の事情に置き換えると上沼恵美子さんにものを申すとは、次のようなことかもしれない。

 

 

  

 

この話を聞いて思い出した話がある、20年くらい前の話だ。

 

 

吉本興業が関西ローカルから全国区になったのは東京進出がきっかけだったが、その立役者は木村政雄さん。

 

 

1997年には吉本興業の常務になり、この頃私は木村さんの講演を聞いたことがある。

 

世の中の移り変わりを、お笑い芸人のキャラクターを使いながら解説すると言う独特の話芸で斬新でありながらも説得力も持ち合わせていた。

 

その時の話で印象に残り、それから20年経過した現在でも、あの話は当たっていたなと言う話がある。

 

話に出ていたのは、二組のグループ。

 

ベテランとしての「オール阪神・巨人」と若手の「ダウンタウン」。

 

木村さんによると、オール阪神・巨人を芸にこだわるあまり芸を『道(どう)』として厳しく捉え過ぎ、礼儀作法に至るまで一切の手抜きを自分達だけでなく周りにいる人にも求めるようなスタイルを貫いていたらしい。

 

一方のダウンタウンは、漫才はやるが漫才へのこだわりは全く無く、ただ世の中に打って出る手段として漫才を使っただけで、自分達がやる気になれることであれば、何をやっても構わないと言うスタンスだったらしい、だから礼儀作法にも全くこだわらないし、周りに押し付けることも無い、と言っていた。

 

だから、若手や新人の芸人の多くはダウンタウンの周りに集まり、オール阪神・巨人は孤高の存在になっていると話していた。

 

これからの時代は、小さな狭い世界にこだわってその世界を極めるというスタンスよりも、常識を壊すくらいのことを考える位でちょうど良いと言い、講演に集まっていたのは経営者や管理職がほとんどだったが、「オール阪神・巨人ではなく、ダウンタウンを目指しなさい」と聴衆を煽っていたことを思い出す。

 

 

20年前でもお笑い界の競争は激化していたが、その後の20年で競争の激化はさらに進んだのは明らかだ。

 

木村さんがダウンタウンの時代になると言った点は当たったが、講演を聞いた時の印象ではオール阪神・巨人はいずれ消えるかなと思っていたが、今もテレビCMに出るなど健在だ。

 

その後木村さんはどうなったかと言うと2002年に吉本興業を離れている。

 

形式的には円満だったかもしれないが、実際にはシコリがあったようで、現在の吉本興業内では、いなかったことにされてるような扱いを受けてるようだ。

 

講演を聞いた時の木村政雄さんはすごく頭のキレる人だという印象だった、日本のお笑い界の次世代のドンになる方だろうと思っていたのに。

 

 

 

 

 

言いたいことを言いたい放題に言ってるように見える人には二種類いると思えてくる。

 

何も忖度せずに思うがままに発言する人と、誰か別の真の権力者に言わされてる(または忖度して発言する)代弁者の二種類だ。

 

 

モラトリアムについて考えていたら、どうしても今回のM1グランプリの審査員批判と結びつけたくなった。

 

私が考えるモラトリアムとは、オリジナルの自分を探すための「自分探し」だと思えるが、お笑い界に限らず、競争が激しい分野ではオリジナルにこだわるよりも競争が少ないニッチを求める傾向が強くなり、純粋なオリジナルから遠ざかるのではないかと感じられる。

 

それは、納得を得るための行動では無く、評価を得るための行動になる。

 

そして、評価が付いてくればその先に納得が得られるであろうという考え方に見える。

 

良い悪いや正しい間違ってるということが言いたいのではなく、先に評価を得ようという行動は『苦行』に近いのかもしれないということが言いたいこと。

 

審査員批判は、だから起きたのかもしれないと思える。

 

 

こうやって考えると、試行錯誤や努力にも「自分らしさ」が重要かもしれないと思えてくる。

 

 

現代は、ひと昔前に常識を壊して新しい流れを作ったはずの人々が、自分達が新しく作った常識を壊されまいと必死に踏ん張っているとも言える。

 

そんな常識を壊したければ、方法は何でも構わないが、圧倒的に支持されなければ勝つことができない。

 

審査員批判をしてるようでは、まだまだモラトリアムは続くだろう。

 

 

【高輪ゲートウェイ】漢字二文字+カタカナ!

モラトリアムについてなにか書いてみようと思っていながら、しばらくほったらかしにしていたが、今日になってTwitterを見ていると、"モラトリアム"というワードがやけに目に付いた。

 

 

 

私にはチンプンカンプンだったが、昨日命名されたJR山手線の新駅「高輪ゲートウェイ駅」に関連して"モラトリアム"が話題になっていた。

 

 

どうやら、『漢字二文字+カタカナ』が作る語感や見た目が良い意味で刺さる人々が案外多いということが分かる。

 

昨日のニュースや世間の話題では、「高輪ゲートウェイ」ってダサいという論調で取り上げるケースが多かったが、実はダサいと思ってる方がダサいのかもしれない。

 

「無罪モラトリアム」は、1999年に椎名林檎がリリースした初アルバムで1年半チャートインし170万枚以上売れている。(私は全く記憶がない)

 

 

『漢字二文字+カタカナ』をキーワードにしてTwitterから少し拾ってみた。

 

 

 

 

このツイート主は「漢字二文字+カタカナ」を平成初期の文化と言ってるが、時系列で見ていくと21世紀の文化に見えないこともない。

 

 

 

高輪ゲートウェイって悪くないんじゃないかと思えてきた。

 

 

<おまけ>

 

そして、こんな意見もあった。

 

 

 

 

 

 

 

【アウトプット重視】一方通行より双方向!

インプットよりもアウトプットが大事だと言われることが増えている。

 

その事を考えていたら、このことばを思い出した。

 

 

『踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン』

 

 

アウトプットとは、踊ることに似てるなと思えてきた。

 

 

 

遊びでもビジネスでも、自ら踊ることが大事になり、どうせだったら周りも踊りに巻き込む能力というか魅力が求められるようになっている気がする。

 

 

 

上手に踊らせるのが名DJのようだが、そんな名DJはオーケストラを指揮する指揮者のようでもある。

 

 

 

 

 

DJや指揮者のような感覚やセンスがあらゆる分野で求められているかもしれない。

 

 

この記事の中には、こういうやり取りがある。

 

廣津留 団員ひとりひとりが意見を言うと、やはり完成品は違うものになりますか。

ロバートソン オーケストラとリハーサルをするとき、私は団員に提案をしてもらうことが多々あります。欧州、米国、オーストラリア、中国、どこのオーケストラと仕事をするかに関わらず、団員がその曲についてどう考えているのか知りたいからです。そこで私がその曲について知っていることと、団員が知っていることを合わせて初めて、新しいものができるのです。もし私から一方通行で彼らに演奏法を教えるだけであれば、スタバでメニュー通りに飲み物を提供するようなもの。高品質ではあっても、彼らからの意見を取り入れることができません。音楽とは双方向の意見を受け入れあって、初めて成り立つのです。

 

ここにも書いてある「一方通行より双方向」は、インターネットが普及してより顕著にそして身近なものになっているが、元々可能だった対面での人間関係においてはそれほど重視されなかった。

 

その気は多少あっても、上下関係や優劣という立場のほうが優先されることが多いので、実際には一方通行になることが多かっただろう。

 

 

 

 

最近、ビジネスの場では「報連相」ができない新人が増えてるなどと言われるのを目にすることがあるが、これも一方通行と双方向の違いで説明できるのかもしれない。

 

 

 

双方向が当たり前だと思ってる人にとっては、一方通行は違和感に満ち溢れているだろうが、一方通行に馴染んでいる人の中には、自分は双方向のつもりの人が多いかもしれない。

 

こういう場合は、コミュニケーションはうまく行かなくて当たり前だろう。

 

 

 

一方通行派の人々と双方向派の人々は、お互いに相手がバカに見えているかもしれないが、駆逐されるのは一方通行派だろう。

【適応or抗う】どっちが得かよ〜く考えよう!

最近のマイブームがこの記事でちょこちょこ引用している。

 

 

格差社会の復讐者たち

「詐欺の子たちはみんなカラフルですね。例えば、窃盗やってる人間には窃盗やってる人間のカラーがあります。一般社会にはないカラーで、それはそれで取材対象の彩りとしては魅力的なんですが、詐欺をやってる人間は『こいつ詐欺やってんな』というひとつの色ではなく、カラフルなんです」

 

ここに書かれていることは、2015年に出されたこの本の要約のようなもので、映画のプロモーションのために書かれた記事だと分かったので、さっそく読んでみた。

 

 

 

 

これらを読んであらためて思ったことの一つに、『カネは天下の回りもの』という諺への疑問がある。

 

私の知ってる日本は、高度経済成長からバブル景気を経てその後現在に至っているが、バブル景気の頃までは、『カネは天下の回りもの』ということに実感が伴っていたが、バブル崩壊後は、金は天下を回っているのだろうか?、という疑問を持つことが増えた。

 

私だけでなく、世間にもそう思う人がいるようだ。

 

 

 

 

 

カネは天下の回り物と思ってる人々は、私を含めて皆どこを回っているのだろうかと考えるが、流れがひどく偏っていることには気付くが、その流れになかなか辿り着けないことが悩みどころになっていた。

 

しかし、「老人喰い」を読むと、カネの流れは偏っているだけでなく、そもそも流れずに貯められ留まっているものが多いんだと改めて気付く。

 

詐欺師の行動は是非は別にすれば、老人が貯金と称して塞き止めてるカネの流れに穴を開けようとしてるとするならば、エコシステム(生態系)の動きとして理解できる。

 

この人間社会のカネの流れと似てるなと思ったのが、地球温暖化の影響を受けての水の循環の変化だ。

 

以前のエントリーでも書いたことがあるが、地球温暖化で恐ろしいことは直接的な気温上昇の弊害だけでなく、その後に起こる間接的な「水の循環の変化」がもたらすものなのだ。

 

一部で言われてる南極の氷が解けて海面が上昇するなどの懸念だけでなく地球から自前で水が賄える地域が激減するかもしれないというおそれなのだ。

 

wikipediaではそんな水の動きを水循環というタイトルで説明している。

 

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この図の雪や氷が維持してる循環が、ゴッソリ無くなったら人間だけでなく動物や植物も全ての生態系が大きなダメージを受けるだろう。

 

長い目で見ると、この現象で淘汰が進み、進化の流れに大きな変化ももたらすと言えるのかもしれないが。

 

最初は似てるなと思ってカネの循環を水の循環になぞらえようと思ったが、よくよく考えると水とカネの循環で起きている問題は、原因が正反対の理由で起きているのだ。

 

水の循環では『温暖化』で雪や氷が減少することで起き、カネの循環では『寒冷化』で流れを滞らせる雪や氷が増えているのだ。

 

このように、循環という観点で捉えられるものには他にどんなものがあるのだろうか?

 

 

循環が成立してる環境では、理由はどうあれ、その循環が変化することが最初は悪い変化として顕在化する。

 

水の循環もカネの循環も、現在悪い点が目立っている。

 

今が過渡期なのだろうが、今の傾向が今後も続くならば、それに適応できるものが生き残るだろうし、それが嫌だという場合はその流れに抗うしかない。

 

よく勝ち組負け組と分類するが、実際には"適応する"ことを目指すか、"抗う"ことを目指すかの選択だと思えてくる。

 

 

適応するほうが良いのか、それとも抗うほうが良いのか、私には分からないがTwitterで探してみた。

 

 

 

 

適応するか、抗うか、どちらを選ぶかで人生は大きく変わるだろう!

 

【格差社会の復讐者たち】目利き力が問われる!

先日、この記事を読み非常に衝撃を受けた。

 

格差社会の復讐者たち

「詐欺の子たちはみんなカラフルですね。例えば、窃盗やってる人間には窃盗やってる人間のカラーがあります。一般社会にはないカラーで、それはそれで取材対象の彩りとしては魅力的なんですが、詐欺をやってる人間は『こいつ詐欺やってんな』というひとつの色ではなく、カラフルなんです」

 

ここに書かれていることは、2015年に出されたこの本の要約のようなもので、映画のプロモーションのために書かれた記事だと分かったので、さっそく読んでみた。

 

 

 

以下、2つのことを書いてみたい。

 

・なぜ騙されるのか? 騙すために準備されてることとは?

 

・すべてのビジネスは騙しかもしれない。

 

 

なぜ騙されるのか?

 

迫ってくる危機やピンチを回避し逃れるために、金で解決できると考えるから騙される。

 

いや、騙されてると気付いてるケースもあるかもしれないが、一度恐怖が芽生えると、逆恨みや報復を恐れる気持ちも芽生えるので、これらの気持ちも金で払拭できるならばと考え騙される。

 

遊んだり楽しむためにお金を出そうという考えは減っているかもしれない。

 

現代社会でもてはやされるリア充的なものは少し捉え方を変える必要があるかもしれない。

 

 

勉強や自己投資と言われる出費は、将来のピンチを回避したいと考えるからだ。

 

現代の出費の支出理由は、危機やピンチの回避のためだ。

 

例えば、医療や健康、金融投資など。

 

 

 

バカだから騙されてるわけではないのだ。

 

そういう仕掛けが成されているのだ。

 

この本の醍醐味は、次の話にある。

 

 

騙すために準備されてることとは?

 

そんなつもりから始まる詐欺や裏社会ビジネスと、そんなつもりじゃなく展開される表のビジネスだが、やり方はほぼ同じ。

 

 

 

詐欺のプレイヤー候補者として、

 

・元闇金業スタッフ

 

・性風俗のスタッフやスカウトマン

 

・刑務所や少年院でスカウト

 

・ヤクザの離脱者

 

・現役の詐欺店舗スタッフからの紹介

 

・他の詐欺や悪質商法の経験者

 

などが集められ、最初の研修が行われる。

 

そこでは、徹底的なブラックぶりを体験させ、それについて来れるかどうかをテストされ覚悟が試されるが、この時点では離脱は自由で簡単に許される。

 

この研修では、ブラックであることは伝えても、それが詐欺だとは伝えてない。

 

この研修では、給料は支払われるし、良い結果を出すものには別途の報酬が出るので、金のために行動できるかどうかでふるいにかけられる。

 

この研修中に、裏では研修に参加してる者の徹底的な身元調査が行われ、家族の詳細も調べられる。

 

この最初の関門を超えた者には、これからの業務が詐欺であることが伝えられるとともに、調べた個人情報が発表される。

 

そして、詐欺に参加するかどうかを求められる。

 

参加するしないは任意だが、参加しない場合の口止めのプレッシャーを与えるために身元調査が行われていて、万一情報を警察等に伝えた場合、家族に復讐の矛先が向くと思わせる。

 

ここまで来ると、ほとんどの者が詐欺に加担することを覚悟する。

 

そして、新詐欺プレイヤーには次の研修が行われる。

 

その研修とは、詐欺を正当化する洗脳教育だ。

 

教え込まれることは、

 

・詐欺は立派な「仕事」である。

 

・店舗に編入されるプレイヤーは、編入されるだけで選ばれた人間である。

 

・詐欺は犯罪だが、「最悪の犯罪」ではない。なぜなら「払える人間から払える金を奪う」商法であり、詐欺被害者が受けるダメージは小さなもので、もっと悪質な合法の商売はたくさんあるからだ。

 

・詐欺で高齢者から金を奪うことは犯罪だが、そこには「正義」がある。金を抱え込み消費しない高齢者は「若い世代の敵」「日本のガン」である。

 

・ここで稼ぎ抜くことで、その後の人生が確実に変わる。

 

 

これらの研修をクリアした者は、恐ろしいことに優秀なビジネスマンよりも遥かに優秀かもしれないのだ。

 

 

すべてのビジネスは騙しかもしれない。

 

こうやって見ると、商品や情報が本物であるかどうかが大事なのだが、本物の商品や情報を扱っていれば詐欺にならないかと言うと、その点が微妙なのが現代なのだ。

 

現代は、商品やサービスの多くが単独で機能するわけではなく、どう使うか、どう活用するかが問われる時代になっている。

 

つまり、商品やサービスだけでは解決しない問題に対して、商品やサービスだけで解決するかのように伝え契約することは、法律的には詐欺ではないが、実質的には詐欺となる。

 

 

法律的な詐欺と実質的な詐欺は、世間的には正反対の扱いを受けるが、中身は大して違わないと私には思える。

 

 

 

狙われるマンション積立金 修繕で悪質コンサル横行 2018/11/30

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本物かどうかの判断がすぐには付けられないものも増えている。

 

 

 

 

現代社会では、目利き力が問われる!

【トレードオフ】現金 or キャッシュレス?

9月にキャッシュレス社会というエントリーを書いた。

 

その中でキャッシュレスは銀行機能と価値観が対立すると書いた。

 

今日は、もう少し掘り下げてみたい。

 

現金か、キャッシュレスか、を巡る話の前提には銀行の弱体化があり、その弱体化は融資業務が伸びないことにある。

 

銀行は、その活路を手数料ビジネスに見出そうとしている。

 

銀行の手数料の要は送金手数料であり銀行だけの特権だったが、金融ビッグバンで銀行は保険商品や投資商品の代理店として手数料ビジネスに参入し始めたのが20世紀終了間際から。

 

私の目には、銀行とキャッシュレスは相性が悪いと思っていたが、銀行はキャッシュレスも利用しようと躍起になっているという話が伝わってくる。

 

 

 

相性が良くなさそうなキャッシュレスに銀行が参入せざるを得ないのは、手数料ビジネスにおける既得権を失いたくないからだろうが、手数料を巡ってはクレジットカード業界というライバルがいる。

 

 

【決済革命】(4)大手銀・クレカに危機感 企業視点の主導権・縄張り争い

これまで100万円を超える送金は銀行のみに認められてきたが、「異業種に牙城を崩されると収益への打撃は大きい。主導権は渡したくない」(大手銀関係者)と危機感を強める。

 

 

「築き上げた加盟店網の強みがあっても危機感は強い」(カード大手幹部)のが現状で、QRコード決済や生体認証など新たな決済手段の開発も進める。本業のクレカと共食いする恐れはあるが、クレカの決済手数料を一気に引き下げるのは難しく、顧客を失いかねないからだ。

 

 

キャッシュレス推進政策が開けたクレカ業界の「パンドラの箱」

世耕経済産業相は10月19日、記者会見において突如、クレジットカード会社に対し、手数料の引き下げを要請する考えを明らかにした。世耕氏は「日本はキャッシュレス対応が遅れている」とし、その理由のひとつとして「手数料負担の重さ」に言及。消費増税対策として議論されているカード利用者へのポイント還元策と平行し、手数料の引き下げ措置が必要との考えを示した。

 

 

 

日本でのキャッシュレス社会は、誰をターゲットにし展開されているのか、はたまたその際の課題をどう捉えているのだろうか?

 

 

 

極端な意見は、なかなか深イイ話に思える。

 

 

 

 

 

 

 

私は他人と同じことを嫌がる傾向があるので、大勢の人が「〇〇は良いよ」というものにはケチをつけたくなることがある。

 

そういう目でキャッシュレスを見ると、アンチな意見を拾い上げたくなる、エビデンスなんかクソ食らえの感情論に近いかもしれない。

 

 

 

 

便利な点ばかりが強調されるキャッシュレスだが、問題点はどこか?

 

今年の夏の北海道地震での全道停電のようなことがあると、

 

 

 

リンク先の記事には、こう書いてある。

 

日銀は今回の北海道での地震の際に、「北海道胆振地方中東部を震源とする地震にかかる災害に対する金融上の措置について」というペーパーを発表し、金融機関(銀行、信用金庫、信用組合等)への要請として、預金証書、通帳を紛失した場合でも、災害被災者の被災状況等を踏まえた確認方法をもって預金者であることを確認して払戻しに応ずることとした。もちろんこの払い出しとは、必要となる現金のことである。

 

しかし、そんな事以前の問題として上げられてることが、

 

 

 

 

便利なものや仕組みやシステムは、確実に身についてる価値観や、持っている能力や判断力の一部を奪うだろう。

 

そういうトレードオフがあることに、一番気付かなければいけない人々が、キャッシュレス社会を歓迎してるように思えてしょうがない。

 

 

 

あなたは現金派、それともキャッシュレス派?

 

この質問の答は、人物判断の材料としておもしろいと思っている。

 

【世間の声】20歳の頃考えてたこと!

2018年も残り一ヶ月を切ると、なんとなく今年1年を総括する話が増えてくるが、総括する際には反省が付き物となる。

 

1年間の出来事だったら反省は教訓になるが、長年続ける反省は後悔になる。

 

今日のエントリーは、次の記事に触発されて書きたくなった。

 

20歳の時には分からなかった大人の真実7つ

その1. 欲しいものを手に入れるためには、長期間、一生懸命働かなくてはならない。

その2. 努力したからといって、必ずしも成功するわけではない。

その3. お金で幸せは買えないが、人生をかなり楽にしてくれる。

その4. 確かに睡眠は死んでから取ればいいとも言うが、今、しっかり睡眠を取るべき。

その5. 健康でなければ何もできない。体のケアをしよう。

その6. 友人を作ることは難しくなる。簡単ではない。

その7. 10年後の人生は想像とはかけ離れている。だから、あまりストレスを感じなくても良い。

 

 

 

反省と後悔が同時に現れるところには、その人の人生が現れる。

 

そんな世間の声を拾ってみた。

 

 

 

こんな問いを発してるツイートがあった。

 

 

 

この問いに対するリプライには、全く別の時代に行ってみたいという答えと、過去の自分の行動に対して後悔や反省の思いが滲むものとがあった。

 

 

 

 

 

反省と後悔の気持ちは、無い物ねだりの気持ちに繋がることもあり、その場合は妬みや羨望に繋がることもある。

 

 

 

このツイートには続きがある。

 

 

 

 

冒頭で引用した記事は、20歳の頃に考えてるほど世の中は甘くないということが前提のように感じるが、20歳の頃すでに過酷な人生を味わってる人もいる。

 

 

 

 

また冒頭の記事は、20歳の自分に向けられたメッセージとも言えるが、20歳の人は20歳なりに子供時代の自分にメッセージを送る。

 

 

 

忘れていた頃に、昔の自分からメッセージが届くこともある。

 

 

 

この世には、確かなものなどなにも無いかもしれない。

 

だとすれば、やることは一つだ、やることと言うよりも"やれること"と言ったほうが良いかもしれない。

 

結果は後から勝手についてくるもので、コントロールできない、コントロールできるものがあるとすると、それは自分の気持と行動だけだ。

 

これは何歳になっても同じことだ。