複数の課題やテーマや案件を同時にこなす能力をマルチタスク能力と呼ぶが、マルチタスクと呼ばれてることの多くは実はシングルタスクの切り替えで、同時に複数のことはできないのではという話を以前書いた。
そんなマルチタスクはシングルタスクの切り替えだ、という話と共通しそうで現代では必須の仕組みがレイヤー構造だと感じる。
イラストの制作工程が分かりやすいので次のツイートを参考にしてほしい。
次元の壁が薄れてきたので様々な世界を知覚出来る様になります
— yutaka (@yutakaozaki85) 2017年9月9日
数字だけの世界、色彩だけの世界、音だけの世界、香りだけの世界等々
3次元とは複数の層からなるレイヤー構造
普段はそれが重なったものを1つの世界と捉えているのです
サードアイを使うとそれらを個別に知覚する事が出来ます pic.twitter.com/KHHShYDgd7
別の表現をすると分業や役割分担が似てるが、昔だったら優秀な人だったら一人でこなしたり、分業ではなく一度に同時に作業していた。
同時に複数の課題を上手にこなすというのは、要領を教えたからといって簡単にはできないので、器用であるということは特別な能力として重宝されたし、簡単に他人に置き換えることができない優位性も保っていたが、難解なこともシンプルな複数のレイヤー構造に分解できることに気付いたら、器用さという特殊能力に依存する必要が減るようになった。
レイヤー構造が浸透すると、器用であることよりも丁寧さが求められるようになり、経験の差はあっても丁寧であれば誰でもできる作業となり、現代ではその丁寧さに速さも求められるようになったので、人間の手を離れ機械化、自動化、に任せることが多くなった。
レイヤー構造で捉えることを可能にしたのはデジタルのおかげだ。
昭和の頃で、アナログなレイヤー構造で身近に存在したものとしてはスライドがある。
複数のフィルムを重ねることで表示するデータが生き物のように変化していた。
教育やビジネスの場では必須だった。
この仕組みに汎用性を与えたのがデジタル。
アナログの時代には全てが一つの面や空間に存在していたが、そこにデジタルが入り込んでくると、一つの面や空間に感じられていたものが複数の層の組み合わせで構成されているという見方ができるようになる。
写真の編集の世界には、被写界深度合成と呼ばれるものがある。
Wikipediaでは焦点合成。
顕微鏡で見るように、小さなもの(虫や花粉のような)を大写しにしようとすると、焦点はごく一部にしか合わないので必要な全体をくっきりと大きく見ることはできない、そのような時に微妙に焦点をずらした複数の写真(カメラの設置位置とアングルは同一のままで)の焦点が合った部分を合成し一枚の全体がくっきりと撮れた写真を編集するテクニック。
これもレイヤー構造で捉えたからこその発想であり、デジタルだからこそできること。
このような層の組み合わせで構成される造りがレイヤー構造と呼ばれ、編集作業が付き物の世界に革命を起こしたのだが、縁が無ければ全くどうでも良い話だ。
ある作業がレイヤー構造に分解できると分かると、分業や編集という作業が浮き上がってくる。
便利なので趣味や遊びで活用するには良いことばかりなのだが、仕事でとなると生産性や効率を突き付けられやすいのでブラックと相性が良くなるという欠点がある。
最近動画で遊んでみようかなと編集アプリを使い始めて、初めてこのレイヤー構造というのが分かるようになってきた。
デジタルでの手描きにも威力を発揮していて、アナログの時代だと手先の器用さのみに依存していたことが、緻密な計算ができれば器用ではなくても丁寧さを持ち合わせてれば、互角に太刀打ちできるレベルを可能にしている。
信じるか信じないかは別にして、全ての現象や物理的な存在は数学的に説明可能だと言われる。
子育てで、賢く育てたければ芸術を学ばせろと言われる。
一見数学的なことの正反対に感じられるが、実は芸術の多くは、特に音楽は数学そのものなのだ。
入り口が正反対に感じられるが、中身は同じらしい。(もちろんわたしにはなんとなく以上には分からないが)
そういえば音楽なんて完全にレイヤー構造で、楽器やボーカルなどパートごとに完全に独立した存在に分解できるし、一つの音楽に感じられていたものは複数の楽器パートの合成だと気付く。
仕事やビジネスの多くがレイヤー構造で分解されてるが、そのレイヤー上に自分の居場所を限定すると幸せから遠ざかるような気がする。
反対に、趣味の分野がレイヤー構造で成り立っているならば丁寧ささえ持ち合わせていればかなりのことが一人でハイレベルにこなせそうだ。
なんだか不思議な方向に話が向かってるような気がするが、向かう先にはこういう話があるような……。
この記事は2019年のもの。
ニートの名言「働いたら負けかなと思ってる」をマジで笑えなくなった“平成の終わり”
この「働いたら負けかなと思ってる」の初出は、2004年(平成16年)9月にフジテレビの番組『とくダネ!』で放送されたニートの男性の発言である。さらに番組中では「今の自分は勝ってると思います」という言葉も続いた。いまや、「ニート」(Not in Education, Employment or Training, NEET)はすっかり一般名詞として社会に定着したが、当時はまだ珍しい言葉であった。
だが、15年前は珍発言として笑われていた「働いたら負け」は、いまや相当にシリアスな説得力を持つに至っている。もちろんニートをやっていれば食っていけず、また就業を希望したときの社会復帰も相当にしんどいはずなのだが、苦労をして働いたところで、往年の野原ひろし並みの「平凡」な幸せすら得ることは困難なのだ。
この変化は間違いなく、平成の悪しき遺産に違いない。ネット上でおもちゃにされていたネタ発言が、令和の時代まで残らないことを祈るばかりである。
レイヤー構造の中で仕事をするのは考えものな令和は既に2年目に入る。