違う見方

新しい時代の始まり。複数の視点を持つことで、情報過多でややこしい現代をシンプルに捉えるための備忘録的ブログ。考え方は常に変化します。

リア充第二章

昭和に青春の思い出を持つ人の多くは、一億総中流に何となく実感を感じたことがある人が多いかもしれない。

 

翻って現代は格差の時代だと言われていて、多くの人が格差を実感してるかもしれない。

 

両方を知ってる一人として、ふと今更ながら思ったのが、格差なんて昔からあったのに、身近に感じたことが無かっただけで、それは知る術がなかっただけだったのだということだ。

 

友達や同僚として付き合ったり接点が生じる人は、生活のレベルや環境が近いことが多いので、みんな似通った生活をしてるなと思いこみ易いのが総中流意識に繋がったのかもしれない。

 

社長の暮らしはともかくとして、上司の暮らしは遅かれ早かれ自分にも訪れるという思い込みはごく自然なものだった。

 

格差らしきものを知る機会は、ドラマや映画や小説の中が多かったとすれば、あれは作り物の世界だからと卑屈になることもなかった。

 

青春ドラマが貧乏で汗臭い生活を描いていた時代の後にはトレンディドラマの時代になった。

 

時代はバブル景気とも重なって行く。

 

ドラマや映画の中では、若いのに身の丈に合わない生活水準を送る生活が描かれていても、あれは作り物の世界だからと自分を慰めたり、アメリカンドリームを実現するぞと発奮したり、どちらにしても現状の自分と比較して劣等感を感じることは少なかったように記憶している。

 

 

時は流れ、インターネットやSNSが普及すると、生活水準や生活環境が大違いで、それ以前であれば接点が生じることがなかった人種の生活が見えることが増えた。

 

その中にはドラマや小説と同じで作り物もあるのだが、桁外れの本物がいることも思い知らされ、知らなければ劣等感なんて感じることは無かったのにということが起きるようになる。

 

 

いろいろなものを持ってる人たちは、持ってることで充実をアピールし、持ってない人たちに優越感アピールを繰り返していた。

 

キーワードはリア充。

 

 

 

今年の夏の甲子園での高校野球を見ていて、猛暑の夏の炎天下で野球をするのはいかがなものかという意見を聞いた。

 

毎年言われることだろうが、甲子園以外のドーム球場を使ってはという話を聞く。

 

それに対する答えは、甲子園以外だと盛り上がりに欠けるからが多いし、私もそう思っていた。

 

しかし、こんな意見もあるのだ、真偽は確認してない。

 

 

 

 

 

 

高校野球に関するリア充は甲子園に出場する球児だと思っていたが、どうやらそうではないようだ。

 

 

リア充はリア充アピールなんかしない、するわけないのだ、余計な反感買っても、ツッコミどころを与えても、得などないのだから。

 

使い古されて死語とも言えるリア充だが、概念は色褪せずに生きているはず。

 

昨日、断捨離の第二章が始まると書いたが、きっとリア充も第二章が始まるだろうし、すでに始まっているかもしれない。