次のような英語表現がある。
You are what 〇〇.
〇〇の部分に当てはまる言葉としてよく見るのは『you are』や『you eat』。
『you are』ならば、あなたはあなた、という意味で、『you eat』ならば、あなたはあなたが食べたものでできている、というような意味。
さらに『you do』と続くこともある。
あなたのやってることがあなたを示す、というような意味だ。
日本語で表現すると三つの別のことを表現したように感じるが、英語だと同一構造の表現で他にも広く応用が効くことが感じられる。
このように構造が確立してると〇〇の部分にはyou+動詞の構造さえ保たれれば動詞が何であろうと成り立つことが理解できる。
このことが理解できるのは論理的思考のおかげだ。
論理的思考に沿うと動詞は何であっても構わない。
しかし、人間には感情や気分があるので、動詞の種類によっては受け入れ難い内容になることも少なくないはず。
論理的思考を妨げるのは、人それぞれが持つ価値観や道徳観や感情となることが多い。
こんなことを思ったのは、昨日からTwitter上でメルカリに対する詐欺的被害にあってるが運営側が対処してくれなくて泣き寝入りさせられているという不満の声が多いことを知ったから。
そして、詐欺をやってる連中に対して運営側は何もせず、問い合わせがあっても『問題があると思うならご自身で警察に行くなり裁判起こすなりしてくれ』というような対応をしてるらしいということがやりとりのスクリーンショットを添えていくつも流れていた。
事情通の人が『メルカリは別に被害を受けてないからメルカリから警察に被害届なんて出せない』なんて声もあり、なるほどこれは論理的思考だと思ったが、感情的には納得し難い被害者の方に共感してしまう。
便利で楽という仕組みやシステムの中には〇〇の解釈という落とし穴が潜んでいるなと改めて感じた。
自分が傍観者ならば論理的思考は被害者を突き放す方向に作用しがちだろう、なぜなら『どうしてもう少し慎重に行動できなかったのか』や『そんな怪しげなものに本当に全幅の信頼を置いていたのか』という疑問が拭えないからだ。
法治国家で生活してると、被害を受けてもしかるべき手段で被害は回復できるし、場合によっては慰謝料すら取れると被害に遭うことを恐れない人がいるとかいないとかという話が多いが、大半のケースでは被害に加えて回復し難い金銭的精神的な苦痛を強いられているのが実態だ。
被害が身体に及ぶことならば苦痛はさらに大きくなる。
賢いつもりで論理的思考ばかりしてると痛い目に遭うことは間違いない。
本当は自分の感情は納得してないのに論理的思考で感情を抑え込むのはリスクなのだ。