ネットやSNSは世界に開かれていても、個々人がアクセスしてるのは実際には狭い範囲で結構偏りが大きい。
偏りの排除は簡単ではないという前提で偏りを最小化できるのは次のような人かなと感じる。
・多種多様な生のビッグデータにアクセスできる立場の人
・不特定多数と常に接点を持つような仕事やコミュニケーションを持ってる人
上記に当てはまっても肝心なビッグデータにせよ不特定多数との接点にせよ自分の属性という偏りからは逃げられない。
それに加えてウソやフェイクも混在している。
何が言いたいかというと、好奇心や興味や関心という『知りたい』の大元にある感情や動機そのものが偏りの元だということだ。
そしてその偏りこそが個性なのだ。
本来は個性は良い悪いという評価の対象にはならないが、そこに法律やルールや道徳や評価基準が介入すると良い悪いという評価に晒されるようになる。
検索という作業や行為には個性が強く反映される。
そんな検索にChatGPT以降の生成AIの導入が促進されたことでAI検索からは自分という個性の偏りがかなり減少されたように感じられる。
そのことによって自分とは違う誰かと相談してるような気になれることが新鮮さを感じさせてくれるが、悪く言うと全方位カバーの模範回答のようでもある。
偏りのある意見や考えには強く個性が感じられ、模範回答は没個性を感じさせる。
不思議なことに没個性なはずの生成AIだが、複数の生成AIに同じお題を与えると違いが生じそこに個性らしきものが感じられる。
独自性やオリジナリティや個性と呼ぶと歓迎されるが、偏りと呼ぶと歓迎されない。
以前よく話題になっていたゼネラリストかスペシャリストかにも通じるだろう。
その時々や属する環境によって需要がどちらに偏るかによって評価自体がコロコロ変わるのだ。
結局人間が曖昧な存在だからこその現象なのだろう。
世間に合わせるという偏りもあれば、動かざること山の如しという偏りもあるのだ。