人は、態度や振る舞い方の使い分けをする。
意識的に行う場合もあれば、無意識のうちに行うこともある。
そんな態度や振る舞いの違いは表裏一体であることが多い。
そんな態度や振る舞いの違いは、何故生まれるのだろうか?
テーマを設けて議論するような場合を想像すると、最初はテーマに応じて意見をやりとりし、それが議論に発展するのだが、ふとした拍子に口喧嘩の様相を呈すことがある。
大人な振る舞いができる時には、口喧嘩はテーマに沿って相手を論破しようとし出すが、そうなると内容の勝負というより言い負かすことが目的になり口撃に近くなる。
同じテーマでも別の人と議論すると、議論の展開が同じようになってもちっとも険悪な雰囲気にならないこともある。
テーマに沿って議論をしてると思うと、この違いを少し間違って解釈するかもしれないが、意見の違いが感情を高ぶらせたのではなく、実は嫌いな人間を相手にしてるから感情が高ぶるのだ。
大事なことは、意見が違うから嫌いになるのではなく、嫌いな人が言ったことは好きになれないということだ。
大人になると、この辺をうまく合わせる術を身につけると思われがちだが、現代人は”好き嫌い”に関しては迷える子羊状態だという話をしてみたい。
Likeability(ライカビリティ)という言葉がある。
日本語の訳語として”好感度や好印象”ということばが当てはめられている。
「コンピタンス(信頼感)」と「ライカビリティ(好印象)」とは?
いつの頃からか、どこまで意識してやってるかはわからないが、ライカビリティが重要になって来たように見える。
ライカビリティという言葉の認知が進んでいるわけではない。
格差の広がりが、社会問題化するのとリンクするように、人々の間に”承認欲求”がキーワードとして当てはめられる行動が目立つようになってきた。
承認欲求の高まりの背後には、頑張っても逆転できづらい昨今の風潮が関係してることは明らかで、従来の逆転のキーワードである”より勉強する”、”より頑張る”など、昭和の根性論と似た努力が報われづらくなっているということがある。
根性論が通じない背景には、社会の序列化と高齢化で人材の流動化がストップしてるからで、努力が足りないからではないケースが非常に増えている。
必然的に、努力する以外の活路を求める動きが出る。
当然ながら、この新しい動きでも努力は要求されるが、大事なことは努力が報われやすいということにある。
世間の多くは、承認欲求が高まるのは、自信の無さが原因だと捉える傾向を感じるが、もっと新しい動きだと捉えることができるかもしれない。
日本では、サラリーマンの場合、どんなに肩書が立派でも、その肩書が外れると社会での評価が大きく低下するのは、評価が人物に基いてないからと言えるだろう。
こういう現象は、世界共通ではなく、日本特有のガラパゴスだろう。
今現在の日本では、まだ旧い勢力の方が強いが、新しい動きも徐々に勢力を拡大している。
新しいや旧いという表現を使うと、年齢が若い人が新しいという印象を与えるかもしれないが、年齢の問題ではなく意識や価値観の違いが大きな違いを作るので、若くても古臭い価値観に囚われてる人もいれば、年を取っていても価値観が柔軟な人もいる。
ところで、ライカビリティ(好感度)が重要になるというと、SNSでのフォロワー数をイメージし易いが、もっと根深い要素がある。
ライカビリティの欠如は、攻撃性を示すようになると言われる。
最近の事例を出すと、
輪投げ会場の受付の机の上にあった景品の駄菓子を手に取ったことを、80代のボランティア男性に大声で叱られた。女児は駆けつけた父親の前で泣き出し、父親と男性が口論するのを見て、4カ月後にPTSDと診断された。
「『おもてなし』の言葉に象徴されるように日本は高いサービスを提供することが美徳だったが、流通やサービス業の人手不足が指摘されるいま、過剰ともいえるサービスの在り方を再考する時期に来ているのではないか」と話していました。
ほんのチョットのことが許せなくなっている。
いきなりそうなったわけではないだろう、ほんのチョットのことだから許容したら、その後で嫌な思いをさせられた、そんな経験をする人が増えた結果だろう。
そうなったのは、法律が身近な存在ではないからという話がある。
主たる原因は両国の社会と会社組織を比較することで明らかになる。まずは法律が身近にあるか否かの差。アメリカは法律社会と呼ばれるがごとく、物事の白黒を法律が決める。だから、人々は心に法律意識を持つ。例えばホテルで不快なことにでくわす。そうしたとき、「こんな要求をしても法的に通らないだろう」と思えば言わない。だが、日本人には法律意識はない。大風呂敷を広げてみれば、要求が通るかもしれないという気持ちが先行してしまう人が多い。
しかし、20世紀の日本はまだ礼儀作法の国として充分通用していたので、法律に頼らなくても上手に振る舞うことができていたはずだ。
一体何が原因だろうか?
福沢諭吉がLibertyの訳語に苦しんだという話がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/自由
福沢の西洋事情にはlibertyを日本語訳することの困難さを述べており、自主・自尊・自得・自若・自主宰・任意・寛容・従容などといった漢訳はあるが、原語の意義を尽くさないとする。
今から約100年前、福沢諭吉の後の世代になる芥川龍之介は、
『自由とは我我の行為に何の拘束もないことであり、即ち神だの道徳だのあるいはまた社会的慣習だのと連帯責任を負うことを潔しとしないものである』
と言った。
自由という概念が、もともとの日本にはなかったことが伺える。
芥川龍之介の言葉をそのまま捉えれば、『自由』はムラ社会を壊したのだろう、ゆっくりと時間を掛けて、そしてムラ社会が成り立たせていた法律とは違う秩序もゆっくり壊したのだろう。
ムラ社会は、悪しき束縛の象徴であると同時に、良き助け合いでもあった。
私は
入れ墨師の立場から
裏社会を見ている訳ですが、
ヤクザはさらにヤクザらしく
カタギはいっそうカタギらしく
お互いがお互いを尊重した上で
人は誰でも
「弱きを助け、強きをくじく」
これに辿り着くのではないかと思います。
そしてやはり
裏と表のバランスが大事。
悪徳と美徳は表裏一体だったと思い知らされているのが今の日本だろう。
”お互い様”という言葉はまだ生きているだろうか?
この言葉は、私の中ではまだ死んでない。
この言葉が死に絶えないうちに、ライカビリティを意識することがもっと広まることを願いたい。
好かれるということがますます重要になるだろう。